3か月もの休校期間を経て、ようやく学校が再開し、今年度初めての宗教朝礼です。イースターや聖母月行事も、全校生徒が集まる形では行えず、聖歌も声を出して歌えないまま現在に至りますが、唯一、皆さんが毎日唱える「主の祈り」と「アヴェ・マリアの祈り」が、ミッション・スクールである晃華学園を支えているのだと思い、日々のお祈りに心から感謝いたします。休校中、生徒の皆さんと同じように、我々教職員も学校へ来ることが制限されていました。新型コロナウイルス感染拡大への恐れ、先の見えない不安を抱えながら、時折学校へ来たときに、心をいやしてくれたのが、職員玄関前の花壇に咲く大輪の「アンネのバラ」たちでした。昨年、東京女学館から接ぎ木していただいた「アンネのバラ」が2年目を迎え、晃華学園の土壌に根づき、美しい花を咲かせています。
アンネのバラ(5月15日撮影)
さて、つい先日、「アンネのバラ」の突然変異として生まれた新しいバラが花壇に仲間入りしました。
「セント・コルベ」と名付けられたそのバラは、アンネのバラと同じく、東京女学館で接ぎ木した苗を分けていただいたものです。今日はそのバラの名前にもなった、コルベ神父についてお話します。
セント・コルベのバラ(7月1日撮影)
もし目の前で、白い冠と赤い冠を差し出され、どちらがほしいですか、と尋ねられたら、皆さんはなんと答えるでしょうか。「二つともほしい」と答えたのが、10歳のライモンド少年、後にアウシュビッツ収容所で、妻子がいる受刑者の身代わりとなって餓死刑に処せられたマキシミリアン・コルベ神父です。
実はこれは、彼が少年時代に見た夢の話で、二つの冠を差し出したのは、聖母マリアだったのです。男の子ばかりの3人兄弟で、ライモンドは貧しい中でも活発な少年として育ち、時にはお母さんを手こずらせるいたずらをしていたそうですが、この夢を見てからは、人が変わったように考え深く行動するようになるのです。夢に登場する白い冠は、キリスト教で、純粋な信仰を表す「純潔」を、赤い冠は、死を持って信仰を守り抜く「殉教」を表していると言われます。この話を聞いた母親は、決してこのことを人に言ってはいけないと伝え、長い間、ライモンド少年の心の中で秘められていました。
この日から、ことあるごとに聖母マリアへ祈りを捧げることが、彼の信仰生活の中心に据えられていました。様々な困難がふりかかる度に、奇跡としかいいようもない恵みがもたらされ、問題が解決へといたるのです。彼は結核をはじめ大きな病気に苦しめられながらも、熱心に学び、次々と新しい試みを手がけていきました。たいへん頭脳明晰な人でもあり、哲学と神学を修める一方で、難しい計算に夢中になったり、宇宙ロケットの設計をしたりして、ある友人は「彼は神父にならなければ、発明家になっていただろう」と言っています。修道院へ入ってからも、わずかな食料、貧しい生活の中で、身を粉にして働き、信仰を人々に伝えるために、「聖母の騎士」という雑誌を発行しました。汗水流して働くコルベ神父に共感する人々がたくさん集うようになり、やがてこの活動は、新たな修道会を生むきっかけとなっていきました。
熱心に神の教えを説くコルベ神父は、やがてアジアへの布教活動を強く願うようになり、1930年、昭和のはじめに、二人の修道士を伴って、ポーランドから長崎に到着しました。世界遺産にもなった大浦天主堂の聖母マリア像に祈りを捧げた後、長崎司教に掛け合い、日本語で「聖母の騎士」を発行したいと願い出ます。この時、コルベ神父は日本語をほとんど知りませんでした。ところが来日からわずか一ヶ月で16ページにおよぶ日本語版「聖母の騎士」第1号が発行されました。いかにコルベ神父たちが日本の生活に溶け込もうとして、精力的に働いたかが分かるでしょうか。このあたりの話は遠藤周作の小説『女の一生・第2部・サチ子の場合』に生き生きとユーモラスに描かれていますので、ぜひお読み下さい。
修道院の仕事のため、いったんコルベ神父はポーランドに戻りますが、1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻すると、彼の発行した雑誌はナチスに批判的だと見なされ、コルベ神父はゲシュタポに逮捕され、アウシュビッツ収容所へ送られることになります。ある日、収容所内で脱走者が出た時、その代償として10人が餓死刑となることが言い渡されました。無作為に10人が選ばれる中で、ある若い受刑者が泣き叫びながら「私には妻子がいる。死にたくない」と訴えます。その時、身代わりを申し出たのがコルベ神父でした。ここから彼らは暗くて狭い地下牢へと送られるのです。このような状況で、人々はわめいたり、悪態をついたりしますが、コルベ神父のいる部屋は全く違っていました。かれは仲間を励まし、共に祈り、聖歌を歌っており、様子を見に来たドイツ兵は「そこはまるで聖堂のようだった」と言っています。死を待つ牢獄で二週間、まだ息をしている4人の中に、コルベ神父もいました。注射器で毒殺しようとするドイツ兵に、彼は自ら腕を差し出し、微笑みさえ浮かべていました。1941年8月14日、とうとう47歳で天に召されました。聖母被昇天というマリア様の祝日の前の日に当たります。
2年前、アウシュビッツ収容所を訪れた際、この第11号棟の小さな地下牢には大きな十字架が置かれ、花輪やロザリオがかけられていました。いまでもコルベ神父を慕って、訪問する人が絶えません。私は子どもの頃に見たコルベ神父の映画や、母が話してくれた二つの冠のエピソード、修学旅行で訪ねた長崎のコルベ記念館を思い出し、80年近くの歳月をこえて、コルベ神父のまなざしに見つめられたような、温かみを感じました。地獄の苦しみの後に、聖母マリアにすべてを捧げ尽くしたコルベ神父へ思いを馳せていました。コルベ神父の偉業をたたえ、1982年には、彼と同じポーランド出身のヨハネ・パウロ2世によって、コルベ神父は「聖人」として列聖されました。
セント・コルベのバラ、バイブル・ガーデンへ(7月2日)
さて、いま花壇に、青いリボンをかけた二つの「セント・コルベ」が植えられています。どんな色の花が咲くでしょうか。アンネのバラと同じく、平和のシンボルとして、晃華学園でも大切に育てていきたいと思います。昨年は、SDGsのBible garden teamとして、有志の皆さんと一緒に、夏休みにバラの水やりをしたり、日本でアンネのバラを育てる先駆けとなった杉並区の高井戸中学校で草取りを教えていただいたり、という活動をしました。梅雨が明けた頃に、また草取りをしたり、肥料を入れたりする作業をします。バラのお世話以外にも、バラの絵を描く、写真や動画を撮る、ホロコーストを題材にした平和学習をする、という活動も考えています。希望者を募りますので、皆さんのご参加をお待ちしています。
最後に、コルベ神父の生き方をたたえ、ヨハネによる福音書の、次のみことばで今日の話を終わります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15章13節)