毎年、全校でイースターのお祝いを聖イグナチオ教会で行っていますが、2025年は「聖年」(旧約聖書では、50年ごとに神のいつくしみによって負債や罪が赦される「ヨベルの年」の習慣があり、今では25年ごとに祝われる。)に当たり、さらに「希望の巡礼者」という聖年のスローガンを掲げた教皇フランシスコが、4月20日のイースターの翌日に帰天されるという出来事が重なり、4月25日のイースター・ミサは特別なものになりました。
司式をしてくださった柴田潔神父様のお説教は、教皇フランシスコの宣教として、教皇に就任して最初に行った難民支援から始められました。
アフリカから戦禍を避けて命がけで逃れてくる難民の方々のために、イタリアのランペドゥーサ島で御ミサを捧げられ、(映画『旅するローマ教皇』の冒頭で、その様子が描かれている。)野戦病院のような、傷ついた人々に寄り添う教会のあり方を呼びかけました。また、柴田神父様が東日本大震災の支援として始められたカブトムシ飼育で得られた資金は、コンゴからやってきた難民の家族の一夜のホテル代として使われたお話をしてくださいました。
いのちの大切さ、「復活」や「再生」を自分の生き方と重ねて考えるなど、生徒たちは各々、御ミサを通して、自分と向き合う機会を得ました。
聖堂の入口には、バチカン公式キャラクターのLuceのパネルや「巡礼指定聖堂」のスタンプが置かれ、イエズス会センターには、イエズス会出身でもある教皇フランシスコの「メモリアル・コーナー」が設けられ、多くの人々がメッセージを寄せていました。
聖堂前では、上智大学に通う卒業生が顔を見せ、教員と語らう姿が見られるのも、本校のイースター行事の恒例となっています。
柴田神父様から、希望する生徒にはカブトムシと飼育マニュアルが手渡されました。柴田神父様の難民支援に協力するために、後日、校内で行ったカブトムシ献金では、3万円を超える寄付が集まり、無事に神父様へお届けしました。
カトリック学校で行う宗教行事が、着実に生徒たちの心に響き、温かな思いやりの気持ちを育んでいることを感じることができました。
晃華学園では、行事の後に「ふりかえり」として自分の考えを言葉にします。以下で生徒のふりかえりから一部抜粋して掲載します。
・事前に写真で教会内を見たけれど、実際に中に入ると想像の100倍きれいで驚きました。特に、天井の幾何学的な模様とバリエーション豊かなステンドグラスがとても感動的でした。聖歌隊のよく響く歌声も素敵で、心が洗われたように感じました。一緒にミサに与った先輩方も私達より振る舞いがしっかりしていて、見習おうと思いました。
・神父様のお話を聞いて、教皇フランシスコは世界中の多くの人々を救い、支えとなっていたのだということ改めて感じました。「つつましい、貧者のための教会にしたい」とおっしゃって、華美な装飾などのない、質素な教会としました。そして、貧しい人々に寄り添ってきました。私は将来、貧しい家庭の子供たちも楽しめる博物館を提案したいと思いました。そのためにも、高校で一生懸命に勉強して、研究員になり、博物館で働きたいという思いを強くしました。
・神父様のカブトムシ募金によって、一晩宿に泊まることができた難民の親子がいました。カブトムシ募金は2011年の福島原発問題の支援から始まったものですが、今では幅広く、より多くの人々の助けになっています。
・宗教行事では、神を信じているか否かに関わらず、神と私達のつながりを感じてきた。特に私は聖体拝領を見てきて、それを感じてきた。パンとぶどう酒がベルの音と共にキリストの御身体そのものへと変化する。その御身体を決してこぼしてはいけないため、布を聖杯やパンの下に敷くということを知って以降、ミサを大切にする人の思いを少しでも汲み取れたと思う。
・今の私は、6年間の宗教教育によって形作られている部分が多いように感じる。世間一般的には、ただの高校生が世界に目を向け、他人の幸せを願って進路を決めることはとても難しいことなのだそうだ。ノーブレス・オブリージュや隣人愛を何度も耳にしてきた私にとっては、「誰かの幸福のために医療の道に進む」という決断は自然なことだ。今後の人生の基底となるような価値観を見つけられたのは、多感な中高6年間を晃華学園で過ごしたからこそ得た結果であると、今なら自信を持って言うことができる。
・今回の御ミサはとても心に残った。聖イグナチオ教会では、中2の時から数えて5回目の侍者奉仕となった。主のご復活を想起させる美しい聖堂、イエス様の御像の前に立った時は、強い感情がこみ上げてきた。お説教の時は、これまでの神父様のお話が思い出された。入祭、閉祭にろうそくを持った時、溶けながらも灯りとなるろうそくに、自らを犠牲にすることをいとわず、他者に尽くし、私たちのあるべき姿が重ね合わされた。私はキリスト者として、今後、日々の生活の中で、神さま、イエス様を証し、教皇フランシスコに倣い、弱い立場の人、苦しむ人、悲しむ人の友でありたい。