中学・高校の6年間、同じ学年に担任として関われる教員は、都内にはあまりいないかもしれません。今年度、高校3年担任であった私は、そんな貴重な機会を得た教員の一人でした。3月15日に行われた、晃華学園高等学校の卒業式。6年間の思い出を噛みしめながら、私は私の涙の意味を考えました。
卒業式はまず、卒業証書の授与から始まります。晃華学園は一人一人を大切にするカトリック校です。だからこそ、卒業生一人一人の名前が担任によって読み上げられ、学校長の手により卒業証書が手渡されます。
保護者の皆様からすると、わが子一人一人が舞台に上がる、まさに「晴れ舞台」。一方、担任からすると名前を決して間違えてはいけない、プレッシャーのかかる場面です。
そのプレッシャーを感じながらも、卒業生一人一人が階段を上がり、名前を呼ばれ返事をし、階段を下りる姿を、注目せずにはいられませんでした。
私は、最後の姿を目に焼き付けたかったのだと思います。
学校長告辞、在校生送辞に続き、卒業生による答辞が行われます。長いですが引用します。
「梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや」
これは『万葉集』「梅花の歌三十二首」に収められた和歌の一つです。梅の花に継いで桜の蕾が今にも咲きそうな様子が詠まれ、春の訪れに対する人々の喜びが感じられます。そして今日も暖かい春の光に包まれたこの佳き日に、卒業式を迎えられたことを心から嬉しく思います。
この『万葉集』の序文は、現在の元号「令和」の由来となっています。ちょうど六年前、入学式の前に行われたオリエンテーション合宿では、学年主任の先生から「令和」という言葉に準えて、規律や秩序を守ることで調和が生まれること、晃華学園に入学して、己を律し他者を尊重できる生徒になるように、とお話いただきました。私が初めて中学生としての自覚を持ったのは、この時でした。こうして私たちの学園生活は「令和」の幕開けと共に始まりました。
このエピソードを聞いたときに、私は驚きました。「覚えていたのか」と。そして、涙が止まりませんでした。6年前のその場面が目の前に思い浮んできたからです。その後も、答辞の中の一つ一つのエピソードが私の心に刺さりました。彼女たちが多くの困難を仲間と共に乗り越えていった姿を、思い浮かべずにはいられませんでした。それは、答辞を聞いていた卒業生たちも同じだったのでしょう。皆、涙を流していました。
卒業生による答辞の引用を続けます。
コロナ禍を経て、ようやく日常生活が軌道に乗り始めた時、私たちは高校二年生になっていました。責任学年として大きな役割を担っていく立場です。コロナ前の学園生活を知る唯一の学年として新たなやり方を模索しつつ、晃華らしさを引き継ぐことが課題となりました。特にクラブ活動では、部長を務めていた私は、すべての時間と労力を注ぎ込みました。毎日を必死で過ごし、最後は部員全員で最高の舞台を創り上げたという事実が、同級生の支えや想いを物語っていました。夏休み明けには学年全員が何かを乗り越え、成長していたと思います。人が変わろうとして努力し、成長していく姿は美しかったです。私自身も、自分の弱さを否定するのではなく、過去の自分や弱くて小さい自分をそっと抱きしめることこそが本当の強さだと気づきました。
一人で頑張るだけでなく、仲間と協力することで強くなった私たちはそれぞれの道への扉を探し、卒業という節目を迎えて、いま、その扉を開こうとしています。高校三年生の皆さん、今までありがとう。出逢えてよかったです。
私たちがこれから歩む社会には、年々激化する自然災害や少子高齢化によって生まれる多くの問題など、解決の難しい問題が待っています。私たちにできることは何でしょうか。
カトリックの暦では、今年二〇二五年は聖なる年「聖年」と定められており、和解と赦しの年に当たります。私たちが神様から愛され、赦されていることを確認すると共に、日常生活では他の人に対して寛容な心を持ち、互いに赦し合うことが求めれています。今まで注がれた沢山の愛情を、これからは希望を持って、より多くの人へ届けていくことが私たちの使命だと思います。
卒業式の後には、これまでお世話になった先生方への花束贈呈も行われました。
その後、高校3年生が学園聖堂に移り卒業感謝ミサを行います。毎日、当たり前のようにお祈りを続けてきた高校3年生が、6年前に入学感謝ミサを行ったその場所で、最後のひと時を迎えます。
晃華学園の卒業感謝ミサは、「シャローム」という聖歌で卒業生を送り出すことで締めくくられます。私はこの「シャローム」をしっかり歌おうと思っていました。でも、無理でした。それは引用する次の部分が心に響き、涙を止められなかったからでした。
シャローム 今日の別れも
シャローム 明日の出会いも
シャローム 神様の御手の
いつくしみの中で
シャローム だから平和
シャローム 神様がいつも
いっしょにいてくださる
シャローム だから平和
私は言い切ることができます。
「晃華学園の卒業生は社会のどこに出ても良い、立派な人物である」と。
ですが私は、心のどこかで心配してしまいます。
「彼女たちは、本当に幸せになれるのだろうか」と。
そんな「生徒離れ」できていない私にも、この歌詞は響くのです。
「神様がいつもいっしょにいてくださる」
そもそも私はカトリックの信者でもなく、晃華学園に奉職するまで、キリスト教について深く知ることはありませんでした。
そんな私にも、響くのです。
卒業式の後は、卒業記念パーティーが催されました。お世話になった先生方へのご挨拶や、仲のいい友人同士での会話に溢れた、大変素敵な時間となりました。
パーティーの最後に担任から一言お話しする時間が設けられました。私は「泣かないから」と言ったくせに、涙を流しながら「シャローム」についての私の考えを話しました。こういう場面で私が涙を流すのは、卒業生にとってはもはや”お決まり”。私を見ながら卒業生たちは「またか」と言いながら笑い、そして泣いていました。
ところで、「シャローム」とは、ヘブライ語で「平和」を意味する言葉です。
卒業生の皆さんにとって、晃華とはここで一旦お別れですが、これは新たな始まりでもあります。一人一人の卒業生が平和で幸せになるための、そして卒業生が世界の平和に寄与する存在になるための、晃華生としての新たなスタートです。この聖歌が、卒業生の背中を押すエールとなることを願わずにはいられません。高校3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。