2021年度

校長からのメッセージ(中高合同朝礼より)

投稿日2021/9/28

昨日の中高合同朝礼で、校長先生から以下のお話がありました。

 

「皆さん、おはようございます。今日は、“人と言うものは”、と言うテーマでお話しします。
皆さんは小学生の頃、影踏み遊びをしたことがありますか。自分の影が踏まれないように逃げつつ相手の影を踏む遊びです。単純な遊びですが、面白い遊びです。この遊びができるのは、人や物に光があたると影ができるからですね。

影は、子どもの遊びでは単純な存在ですが、心理学的な観点からみると重要な意味を持っています。それを見る前に、シャミッソーの『影を無くした男』という、影を扱った小説を簡単にご紹介します。この小説は、大学の『人間学』の講義で習ったファンタジー小説ですが、何故か最近この小説が、私の心の中に何度も浮かんでくるのです。それで、再読し、考えたことを合同朝礼で皆さんに分かち合おうことにしました。

主人公のシュレミールは、ある日、人間に成りすました悪魔から“影をゆずってはいただけませんか?”と持ち掛けられ、金貨が出る財布と交換に譲ってしまいます。影がなくてもたいしたことではない、それよりも金貨が大切だ、と考えたのです。その後、外を歩いていた時、“あら、影がないわ”、と言われて、自分の影のない事の重大さに気づき、それ以来自分には影がないことを人々に知られないよう大変苦労するというお話です。

さて、影って何でしょう。心理学的に言うと、光によって抑圧され生きられていない心の一面です。ごくごく簡単に言えば、自分が短所だと思って嫌っていて、人には知られたくないという心の一部分です。例えば、人前では明るいけれど家では無口で暗いというようなこと。反対に、長所だと思っている部分が、光にあたります。私は親切でいい人で、意地悪はしません、嘘はつきません、というようなことです。私たちには、両方があるのですが、例えば、長所を5つ書きなさいと言われると、なかなか書けません。短所を5つ書きなさい、というとスラスラ書けます。この場合、短所を受け入れているのではなく、嫌ったままでいる、と言うことです。それで、短所のない人をうらやみがちですが、短所がない人とはちょうど、影をなくしたシュレミールのような状態です。短所があるのは人間に影あるのと同様に当然のことで、それをないことにしてしまう方が問題です。ちょっと考えてみましょう。毎日太陽がかんかんと照り付けると、少し雨が降ってくれないかな、と思わないでしょうか。それと同じで、私は善い人です、親切な人です、という光のオーラを出す人と一緒にいると疲れてきて、その人と少し離れたいな、と思います。木陰に逃げたくなります。
短所、嫌な部分があるのは当然だと言われても、皆さんの年齢では、この短所がなければと思うでしょう。そこで、短所と仲良くなる方法を教えします。“リフレーミング”という《対照の枠組みを変えて別の感じ方を持たせること》という技法です。つまり、短所を長所として言い換えてみるということです。私の体験から例を話しますと、私は母から見れば、いったん言い出したら聞かないという頑固な子でした。この頑固、という短所は、裏返せば、意志が強い、ということになります。私は頑固なおかげで、両親は反対しましたが修道生活という道を選び、修道者になりました。私は自分の意志を貫き通したのです。それで今の私があります。皆さん、短所はすでに皆さんを助けていますよ。嫌だと思わないで、リフレーミングの技法で見直してみましょう。

さあ結論です。つまり、“人というものは”長所も短所もあってこそ人であり、長所だけ、短所だけの人はいません。そして、人は短所、弱さがあるからこそ神様から愛されている存在です。イエス・キリストは仰いました。『私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである』、と。ここでいう罪人とは犯罪者ではなく、ユダヤ教の律法を守れない人のことです。これで話を終わります。」

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