2020年度

3学期始業式

投稿日2021/1/14

1月5日に3学期始業式が行われました。
校長先生から以下のお話がありました。

「皆さん、新年あけましておめでとうございます。又、新しい一年が始まりました。今年の干支は牛ですね。『牛』という漢字の象形は、牛を正面から見た形である、と、漢字の成り立ち事典に書かれています。頭に角があり、腰骨が出っ張った形です。牛は古来から犠牲の最も重要なものとされ、このことは聖書の世界でも同じです。ルカ福音書の1章、2章には神殿の場面が出てきます。神殿は祈りのほかに、動物のいけにえを捧げる場所で、牛が捧げものとしては一番高価な動物でした。それで、ルカ福音記者のシンボルとして牛が充てられています。ちなみにマタイ福音記者は人間、マルコは獅子、ヨハネは鷲です。

ところで、牛が登場するお話って何かなかったかなと思いめぐらしているうちに、私の頭に引っ掛かってきたのが、新見南吉の『花のき村と盗人たち』でした。主人公は盗人の頭ですが、子牛が重要な役割を担っています。あらすじを紹介します。

『花のき村に5人の盗人たちがやってきました。本当の盗人は、根っからの悪人であるかしらだけで、後の4人は、昨日まで大工や鋳掛屋、角兵衛獅子、錠前屋をしていました。かしらは子分たちに、村の下見を命じ、自分は土手に座って一服していました。やがて、次々に子分が帰ってきて村の様子を報告するのですが、金持ちの屋根が素晴らしかったとか、ろくな鍵しかしていない蔵を嘆いたり、道端でとんぼ返をしたり、鍋の修理を請け負ったとかで、盗人としては全く役に立たない情報を持ち帰ったのでした。そこでかしらは子分たちにもう一度見直してこい、と村へやります。子分たちが出かけた後、かしらの目の前にどこからともなく子牛を連れた子供が現れ、かしらに子牛を預けて、遊びに行ってしまいます。何もしないで子牛を手に入れたかしらは、子分たちに自慢できると思うと笑いが止まりません。が、そのうちに、笑いが涙に代わり、目を濡らし始めました。うれし涙でした。かしらは、それまでの人生、人から冷たい眼ばかりで見られてきたので、信用されて物を預けられることなどなかったのです。そのため、信用されるのは何とうれしい事か、とますます涙が止まらなくなります。それでかしらは子供が戻ってきたら子牛を返そうと思い直し、待っていました。そのうちに子分たちが帰ってきて、かしらが子牛と一緒にいるのを見て、“さすがかしらだ、自分たちがいない間に一仕事をした”、と誉めますが、かしらは、子牛を預けられた事情を子分たちに話し、子供を捜しに行かせます。その間子牛はかしらを母牛と思うのか、体を寄せてきて、静かにしています。子分たちの捜索にもかかわらず、子供は見つかりません。そこで、かしらは村役人の所に行き、事情を話し、子供を捜してもらうことにしました。話のついでに、自分が盗人であることを白状し、子分たちについてはお慈悲を願いました。その時になってもかしらの眼からは涙が流れ続けていました。翌日、盗人をやめた子分たちは、「盗人にもうなるんじゃない」と言うかしらの言葉を胸に、それぞれ旅立っていきました。村役人は村人たちに頼んで子供を捜してもらいましたが、結局、子供は見つかりませんでした。子供は一体誰だったのでしょうか。花のき村の人々によれば、その子供は橋のたもとにあるお地蔵様だったのだろう、ということになりました。』あらすじは以上です。

皆さん、盗人のかしらは、人からそして子牛からも信用されたことが、涙が溢れるほどにうれしくて、かしらの中にある悪の心を溶かしていったのだと思いませんか。涙は、賜物です。泣くことで人は解放されていきます。牛の話を、と思い、「花のき村と盗人たち」を再読して、かしらの心が変化していく様に私は感動しました。ところで、子供がかしらに預けた子牛とは一体何でしょう。子牛はかしらにずっと寄り添っていました。私が思うに、人が変わっていくとき、身近に寄り添ってくれる誰かがいることの大切さを、子牛の存在が示してくれたのではないかと思いますが、どうでしょうか。

さて、皆さんは今年をどんな年にしようと思っていますか。個々にいろいろ希望があるでしょう。それに付け加えてもらいたいのが、お互いを信頼し、助け合う眼差しを持ち、共感しあって生きる、ということです。皆さんにとっては今までしてきた生き方ですが、今年はさらに意識して生きて行って欲しいと望んでいます。

これで話を終わります。」

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