次の文章は、明日行われるイースター行事について、高校2年生の宗教委員長が寄稿したものです。
「人間にとってあらゆることは不確かでも、人の死ほど確実なものはない」
これはある人の言葉ですが、その通りだと私も思います。
物事の真理を追い求める科学と学問のこの時世に、”死んだ人間が蘇る”など、ナンセンスだと、私だけでなくほとんどの人が思っていることでしょう。
しかし、その不変の真理を覆したのが主イエスの復活であり、その喜ばしい日を神様に感謝し礼拝する、そんな日がイースター、復活祭なのです。
今回、私はその御ミサにあずかるのも5回目となったので、少し違う観点からイースターについて考えてみることにしました。
主イエスの復活といえば、新約聖書におけるマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四人の使徒による福音書の記述ですが、
私は、去年の宗教科の授業で扱った旧約聖書との関連性が、とても興味深いと感じたのです。
それは、旧約聖書の中でも冒頭である『創世記』の、アブラハムとイサクの物語、「イサクの燔祭」の中の文です。
不妊の妻サラとの間に神様が宿してくださった、たった一人の愛する息子イサクを、
生贄に捧げるよう神様に命じられたアブラハムは、当然葛藤はしたものの、神の意に従うことを決めます。
しかし、ここで彼は連れてきた二人の若者にこう告げたと書かれています。
「お前たちはロバと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行き、礼拝をして、また戻ってくる。」(創世記22章5節)
お分かりでしょうか。アブラハムは、これから生贄に捧げてしまうイサクと共に戻ってくると言っているのです。
この一文からだけでも、彼が彼の神を信じ、死が事実であると同様、戻ってくることも事実として受け入れ、
死からよみがえらせられるとアブラハムは信じている、と言う事が分かります。
さらに、その後の6節でも、イサクの「焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか」との問いに対して、
アブラハムは、「焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」
と答えています。
ではこれに対して、主イエスの復活の際の記述を見てみます。
主イエスは「私は三日後に蘇る」とおっしゃっておられたのにも関わらず、主イエスが十字架にかけられると、
弟子たちは失意のうちに、一度散り散りとなってしまいます。
また、十字架から降ろされた後の記述でも、
「その死体を下ろすときに、一人の兵卒が槍でその脇腹を突いた、すると血と水が流れた。」(ヨハネによる福音書)
この文からは、「イエスが確実に死んでいたこと」「イエスは蘇らないであろうということ」を書き表そうとした事が分かります。
弟子たちは信じたかったものの、冒頭に紹介した不変の真理の方に軍配をあげそうになっていたのです。
この二つの聖書内の記述を対比してみると、創世記が書かれた時代と新約聖書の時代には、約二千年の隔たりがあります。
つまりこの間に、人々は神がおっしゃられた事を無条件で受け入れるという創世記の頃の姿勢から、
まず常識を念頭におくという姿勢に変わりつつあったのです。
現代の私たちはどうでしょう。忙しい日々の中で物事の真偽やそれを証明することばかりにとらわれ、
何かを無条件で信じ、受け入れることなどほとんどないのではないでしょうか。
だからこそ私は、このイースターミサが、私たちのため十字架にかけられ、死者の中から蘇られた主イエスに想いを馳せ、
自らの気持ちを新たに、祈りや聖歌を通して喜びとともに感謝をする、そのようなものになればいいなと願っています。
今日の私たちは、些細なことで人を憎んだり、疑ったりしてしまいます。
しかしこのイースターミサでは、主イエスの御復活をお祝いする気持ちで祈り、
あの素晴らしいイグナチオ教会の響きの中聖歌を歌うなど、
穏やかな信仰の気持ちでミサに臨んでほしいと思うのです。
皆の歌声が教会の中に響く瞬間が、あの響きを聞くのが、私は本当に楽しみです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイによる福音書28章20節)
今年もこの言葉を胸に、聖イグナチオ教会で主イエスの御復活をお祝いし、祈りたいと思います。