晃華学園では毎週土曜日、全校生徒にむけて教員が自分の考えを放送で語ります。
生徒にとっては、カトリックの価値観はもちろん、教員個人の多様な価値観に触れ、自らの価値観について考える機会となっています。
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晃華学園は、二人の修道者によって設立されました。
一人は、アデル・ド・バッツ・ド・トランケレオンです。
もう一人は、ギヨーム・ジョゼフ・シャミナードです。
二人は、信徒マリアニスト共同体、アリアンス・マリアル、汚れなきマリア修道会、マリア会という4つのグループを立ち上げ、その4つのグループは、今日も世界中で青少年の教育と生活困窮者の救済のための事業を中心に活動しています。
アデルは1828年1月10日に帰天し、シャミナードは1850年1月22日に帰天しました。
マリアニストのグループでは、この両創立者の帰天日の時期に、創立者に感謝し、創立者に心を寄せる期間を過ごしています。
そこで、今日は、アデルが10代に書いたとされる手紙の内容を紹介し、私の解説を交えながら、皆さんとアデルの考えを共有したいと思います。
最初に紹介するのは、アデルが16歳の時に書いた手紙です。
「わたしたちが歳をとったとき、なぜこのような人生を歩むようになったのか、このわたしにその道を選ばせた、わたしの趣向や傾向、動機などについて考えさせられる時がくるでしょう。ですから、わたしたちは常に神様の呼びかけに耳を傾けなければなりません。~中略~。神様の声に召かれて、人生の道を固める日がくるまでは、毎日『聖霊よ、来て下さい。あなたの光でわたしたちを照らして下さい。あなたの聖なる愛の火でわたしたちのこころを焼き尽くして下さい』と祈りを捧げましょう」
皆さんは、中高生活の中で、大学入試に向けての進路選択を行っていきます。
進路選択の際に参考になるのが、このアデルの言葉です。
自分自身の趣向や傾向、動機と向き合い、自分がその道に向いているのか、自分が進もうとしている道は、本当に神様に召された道なのか、よく考えましょう。
自分の心の中に、神は共にいてくださいます。
神様の呼びかけに気付くことが出来るように、祈りを大切にしましょう。
次の手紙は、アデルが17歳の時に書いた手紙です。
「決して黙想と糾明を怠らないようにしましょう。たとえわたくしたちに与えられた祈りを全部するだけの時間がなかったとしても、この二つだけは、他に優先して実践しようではありませんか」
糾明とは、自分の歩みに誤った点がないか、自分と向き合うことです。
糾明に関して、アデルは、毎日曜日、過去一週間の生活についての糾明に時間を割当て、進歩したのか後退したのか、改善のためには何をなすべきか、進歩のためにはどんな手段をとるべきか、などについて反省するように勧めています。
そして自分たちの決意を固めるために、次のような鍛錬を実践することを提案しています。
「おしゃべりをしたくなったとき、一度くらいはこれを抑えるように努力しましょう。残念なことに、わたくしたちは、しょっちゅう不必要なこと、なんの役にも立たないことを口にしています」
また、この糾明に関連して、同じ年に次のような手紙も書いています。
「わたくしたちは、被造物・表面的なことに愛着し過ぎてはいませんか。こころの優しさと感じやすさを神様に向けましょう。はやる気持ちを野放しにしてはいませんか。この熱意を義務の遂行に向けましょう。他人を喜ばせることに気を揉み過ぎてはいませんか。むしろ神様を喜ばせることに気を配ろうではありませんか。他人からの視線を気にし過ぎてはいませんか。自分の肉体を楽しみや快楽に使いすぎてはいませんか。興味の対象を心の美徳に向けようではありませんか」
最後に紹介した手紙が総まとめのようなものです。
10代のアデルは、心の美徳に従うことや神様を喜ばせることは何なのかを、祈りと糾明を通じて、いつも考えていました。
これを繰り返すことで、自ずと自分自身が進むべき道は拓かれていくものだと考えていたのでしょう。
そして、20代になったとき、修道会を立ち上げ、青少年の教育と生活困窮者の救済に、その人生を献げていったのです。
皆さんも、10代のアデルのように、毎日曜日、過去一週間の生活についての糾明に時間を割当て、進歩したのか後退したのか、改善のためには何をなすべきか、進歩のためにはどんな手段をとるべきか、などについて反省し、その中で、自分の趣向や傾向や世の中の状況と向き合っていっては如何でしょうか。
これを繰り返すことで、人生で歩むべき道が見えてくると思います。
※手紙の言葉は、宗教用語が多かったので、一部、意訳しています。