「ゴッホと日本」というタイトルのページが中学美術の教科書『美術2・3』にあります。
「ゴッホは、日本に行ったことがありませんでしたが、日本の美術、そして日本という国そのものに憧れていました。」
という書き出しで内容が始まります。実際にゴッホはパリの画商ビングの店で多数の浮世絵を見ていましたし、少ない持ち金で購入もしていました。日本の浮世絵には、西洋の絵画とは違った遠近法を用いていたり、平板な色面の構成や見たことのない構図、そしてあまり取り上げないモティーフなどが絵の画題になっていたりします。ゴッホはそれらに魅了され、浮世絵の模写を複数行っています。ただゴッホの凄いところは、模写であるにも関われず、色彩を変えてみたり、背景のモティーフを自由に変えたりして自分なりの工夫を施しているところにあります。この浮世絵から学んだエッセンスを自分の作品に生かし、そして彼独自の絵画の世界を築いていきました。
ゴッホは書簡の中で日本のことをこのように書いています。
「日本美術を研究すると、疑いなく賢者で、哲学者で、知性にあふれた人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのか。地球から月までの距離を研究しているのか・・・ちがう。ビスマルクの政治を研究しているのか・・・いやちがう。その人はたった一本の草を研究している。
しかし、この草がやがて彼にありとあらゆる植物のデッサンを描かせる。次いで季節、自然の大景観、最期に動物、そしてさらに人物を描かせるようになる。彼はそのようにして生涯を過ごすが、すべてを描きつくすには人生はあまりに短い。
どうだろう。まるで自分自身が花であるかのように自然の中に生きる、こんなに素朴な日本人が我々に教えてくれるもの、それこそ真の宗教と言ってもいいのではないだろうか。
日本美術を研究すれば、もっと楽しく、もっと幸せになるに違いないと僕には思える。因習まみれの世界で教育され、働いている僕らを自然へと回帰させてくれると。」
この書簡を読むと日本や日本人のことを彼の理想の世界に重ね合わせて思い描いているようです。我々日本人が読むと自然を愛する素晴らしい人種のようで、とても照れ臭い思いをしてしまいます。
ゴッホは南仏のアルルを日本に似ている場所として、そこに彼の抱いている日本のような理想の共同体的な芸術家村を作りたいと思い描くようになりました。それに唯一賛同し来てくれたのがゴーギャンです。しかし、ゴーギャンはゴッホとの激しい芸術論争や性格の不一致から、彼はパリに去ることを決意しゴッホに告げます。それを聞いたゴッホは精神を病んでしまい、自分の耳を切ってしまいます。ゴーギャンとの共同生活は2ヶ月間という短い期間で終わってしまいます。それ以降ゴッホは書簡に日本や日本人のことをほとんど書かなくなります。日本への憧れや夢が覚めてしまったかのようです。ただゴッホの作品はさらに独自性が深まり精神的な高みまで上り詰めていきました。
確かに言えることは、ゴッホの絵画に日本の浮世絵が影響を与えたということです。私たち日本人にとってゴッホの作品が親しみ深く見ることができるのはそれが理由の一つなのかもしれません。
*参考資料「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」図録より