2019年度

宗教朝礼より アンネのバラ

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投稿日2019/6/10

色とりどりの花が咲き乱れる5月は、カトリックの世界でマリア様を讃える聖母月です。聖母マリアを校名に掲げる晃華学園にとっても、大切なお祝いの月です。今年の5月は特に、新たな元号「令和」の幕開けでもあり、皆さんはさわやかな気分でこの季節を過ごしていることでしょう。私は、最近学校へ来ると毎朝職員玄関の花壇をじっと観察しているのですが、1月から育ててきたバラが、ようやく小さなつぼみをつけました。今日は、この季節にふさわしい美しいバラ、「アンネのバラ」についてお話します。

 

私は昨年末に、「ハンナのかばん」の講演でおなじみの石岡史子さんらが企画するホロコースト研修ツアーに参加し、アウシュビッツ、テレジンなどの収容所を見学しました。「アンネのバラ」について知ったのは、そのときに一緒に参加した東京女学館の先生のお話からでした。ベルギーの園芸家の親子が旅先で、アンネの父オットーに出会い、彼女がバラを愛していたことを知り、『アンネの日記』を読んで彼女の平和を願う思いに打たれ、10年の歳月をかけて「アンネのバラ」という新種のバラを作りました。

オットー・フランクの元に届けられたそのバラは、「平和のシンボル」として日本へも苗が届けられ、

今では全国各地で栽培されています。つぼみを持つと濃い紅色、花びらが開き始めると鮮やかなオレンジ色、散り際にはピンクに変わるそのバラは、隠れ家生活の中でも、好奇心を失わず、おしゃべりで、豊かな感受性と鋭い観察眼を持っていたアンネの表情とも重なると言われています。

その「アンネのバラ」が東京女学館へ届けられたのは、黒川万千代さんという卒業生の功績によるものです。1929年、アンネと同じ年に生まれた黒川さんは16歳の時に広島で被爆します。多くの人々の亡骸を見た黒川さんにとって、ホロコースト=ユダヤ人の大量虐殺の悲劇は、人ごとではありませんでした。戦後は自らの被爆体験を語ると共に、平和の実現を願って、「アンネのバラ」の普及に努め、2004年に母校へバラを届けたそうです。それ以来15年におよび、女学館では有志の生徒たちを中心に「アンネのバラ委員会」を結成して栽培を続け、毎年希望者にはバラを接ぎ木する講習会を行っています。

帰国してから学校でこの話をしたところ、ユネスコスクール担当のA先生が晃華でも育ててみようと乗り気になり、SDGs担当のB先生は「BibleGarden」の一角に植えてはどうかとその気になり、

遂に「接ぎ木の会」に参加することになりました。1月19日、土曜の午後に、我々3人はみっちり3時間、バラの接ぎ木を仕込まれてきました。土台となる野バラの幹に、ナイフで切り込みを入れた「アンネのバラ」の細い枝を差し込み、テープで固定するのですが、懇切丁寧なご指導にも関わらず、結構大変な作業で、しっかり育つのか半信半疑でした。

学校へ持ち帰ってからは、温度や湿度を確認しながら、祈るような思いで見守っていました。最初の苗に芽が出たのが、1月30日、緑色の小さな芽が出たときには本当にホッとしました。ちょうど300グラム未満で誕生した赤ちゃんが、保育器の中でご家族に見守られながら順調に育っているというニュースを聞いて、いのちの尊さを感じた瞬間でした。

その後、3月20日に植木鉢へ移し、4月24日にようやく花壇に移し替えることができました。この時は、「BibleGarden」の生徒、「アンネのバラ」の栽培に興味を持ってくれた中学3年生が中心となって作業をしてくれました。また用務員のCさんがガーデニングのベテランとして、水やりや防虫剤の使い方などこまめに教えてくださるのも本当に助かります。マーガレットや水仙と一緒に、アンネ、ハンナ、テレジア、ガラシアと名づけられた小さなバラが植えられていますので、登下校の際に、探してみてください。これからは是非、より多くの生徒の皆さんのご協力をいただき、皆で平和を実現する「バラの花園」を作っていきたいと願っています。まだ生まれたての赤ちゃんのように小さく細い枝ですが、興味のある人は相談に来てください。

さて、「アンネのバラ」に関するもう一つのエピソードで今日の話を締めくくりたいと思います。

GW中に、よく利用する杉並区の図書館へ行ったとき、それまでは素通りしていた入口の花壇に大輪のオレンジ色のバラがいくつも咲いていることに気づきました。そばへ寄ってみると、つぼみは紅色、大きく開いた花は淡いピンク色です。もしや・・・と思い、プレートを確認すると、やはり「アンネのバラ」でした。図書館の方にお話を伺うと、杉並区内の高井戸中学校から数年前に贈られてきたそうです。

実はこの高井戸中学校こそ、40年ほど前から「アンネのバラ」を育てている学校であることを広瀬先生から教えていただきました。国語の授業で「アンネの日記」を読んで感銘を受けた当時の中学生たちが、「アンネのバラ」の話を知り、育ててみたいと思ったのが最初です。3株からはじまったバラの栽培は今では、地域の方のサポートもあり200株まで増えました。図書情報センターのホロコースト特設ワゴンにもこの本が置いてあります。

図書館の方は、バラが届いた記録をファイルで確かめながら、『「アンネの日記」が破られる事件がありましたよね。ウチの図書館も被害にあったのです。』とおっしゃるのを聞き、私は愕然としました。覚えている方も多いと思いますが、2014年に都内の図書館や書店で「アンネの日記」やホロコースト関係の本が300冊近くも破られる事件が起きました。この事件とバラが届いたこととは、直接つながりがあるわけではありませんが、私には無関係には思えませんでした。『アンネの日記』は「世界中で最も多く読まれている一冊」としてユネスコの世界記録遺産にも登録されているロングセラーです。平和への願いを踏みにじるような悲しい事件がある一方で、アンネの残した日記の力強い言葉の数々は、多くの人々の記憶に刻まれ、「アンネのバラ」は美しく咲き誇っています。

アンネが生きていれば今年で90歳、アムステルダムにある博物館には世界中から訪問客が絶えません。

アンネは亡くなる4ヶ月前の日記で「わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!」と綴っています。将来はジャーナリストや作家になりたいと望んだ少女は、ベルゲン=ベルゼン収容所で命を落としましたが、その死を経て、見事に夢を叶えたと言えるでしょう。

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