2018年度

ミソサザイの歌声【2学期終業式 校長先生のお話】

この記事は1年以上前の記事のため、内容が古い可能性があります。
投稿日2018/12/31

いよいよ二学期最後の日となりました。この終業式のあと、皆さんは、クラスで、担任の先生から二学期の成績をいただきますね。それを見て、喜ぶ人、がっかりする人、等様々でしょう。答案返却の日から予想はついているでしょうが、やっぱり、と更にがっかりするのは辛いですね。

そこで今日は、そんな人たちへの応援歌となるような小さなお話をします。「雪のひとひらの重さ」というお話です。放送研究同好会の人たちのようには上手に読めませんが、心を込めて読みます。

 

真冬のある日、長い冬眠の合間に、巣穴からチョロチョロと出てきた小さなネズミがいました。小ネズミは眠そうに周りを見回し、もう一度穴の中に戻って寝ようとしたのですが、「こんにちは、ネズミさん!眠れないの?」と、ミソサザイから呼びかけられたので、マツの木の低い枝の下にうずくまって、おしゃべりを楽しむことにしました。

「ねえ、雪のひとひらって、どのくらいの重さだろう?」と出し抜けに小ネズミが聞きました。

「雪のひとひらなんて、重さがあってないようなものだと思うわ」とミソサザイは答えました。「ほとんど意味がないんですもの。重さだってほとんどありゃしないのよ。第一、雪のひとひらなんて、重さをはかろうにも、はかれやしないわ。そうでしょ?」

「それはちがうよ」と小ネズミは言いました。「去年の冬の、ちょうど今頃のことだった。ぼくは冬眠の途中で目を覚まして、新鮮な空気をちょっと吸おうと穴から出てきたんだ。仲間もいないし、他にすることもなかったから、ぼくはここに座って、落ちてくる雪びらを数え始めた。雪びらはこの木の枝に乗っかって真っ白な毛布で松葉をおおっていた。二百四十九万二千まで数えたときだった。その次のひとひらが枝の上に乗った。そうしたらどうだろう?枝が地面にグッと垂れ下がって、上に積もっていた雪も一緒に滑り落ちたんだよ。だから雪のひとひらの重さだって、ばかにできないんじゃないか?まったく意味がないわけじゃないのさ。」

ミソサザイ自身、ごく小さな鳥で、こんなちっぽけな自分が周りの広い世界に影響を及ぼすなんて、考えたこともありませんでしたから、小ネズミの言葉に驚いて、長いこと考え込みました。
「もしかしたら」とミソサザイは胸の内でつぶやきました。

「あたしの小さな歌声にも意味があるのかも知れないわ。そのために何かが変わることだって、ないとは言えないんじゃないかしら」

 

どうでしたか、このお話。空から降ってくる雪を手のひらで受け止めるとすぐに溶けてしまう雪のひとひらでも、その一片が、それまでに積もっていた雪の上に乗っかると、枝を地面に押し下げ、雪を払い落とす、という状況がうまれる。

皆さんの中には、コツコツと一生懸命やっているのに成績が良くならない、と嘆く人もいるでしょう。あきらめないでください。後一歩努力すれば、状況が変わる、ということをこのお話しは教えてくれます。

日々コツコツと努力して蓄積してきたもの、課題にちゃんと取り組んだり、テストの解き直しをしたり、復習をして習ったことを記憶に留めるなどをして、貯めてきた物が自分の中にあるから、雪のひとひらのようなちょっとしたものにも意味が生まれ、それが大きな飛躍に繋がるということです。

音楽史上に残る偉大な人の名曲は、その音楽家のインスピレーションが湧いたから作曲できたのではなく、毎日のように作曲を続けたからインスピレーションが湧いたのだと言われています。ベートーベンもモーツァルトも来る日も来る日も作曲に取り組み、そうした継続した努力があったから数々の名曲を生み出せたのだ、と言われています。偉大な作曲家たちもそうであるのは、励みになりますね。

さて、最後に、このお話のもう一つのメッセージ、つまり、ミソサザイが胸のうちでつぶやいたことを繰り返したいと思います。
ミソサザイは子ネズミの言葉から大切なことに気がついたようです。

「あたしの小さな歌声にも意味があるのかも知れないわ。そのために何かが変わることだって、ないとは言えないんじゃないかしら」。
私なりに言い換えます。
「あたしの小さな“努力”にも意味があるのかも知れないわ。そのために何かがかわることだって、ないとは言えないんじゃないかしら。」
“小さな歌声”は、“小さな努力”とか、“小さな存在”とか、今、人それぞれの感じていることに置き換えていえる言葉だと思います。

これで話を終わります。

page top