2018年度

修道者としての出発点

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投稿日2018/10/25

私の修道会では、先日の日曜日、初誓願者一人、終生誓願者二人の誓願式を学園聖堂で行いました。この日は、本人たちにとっても、修道会にとっても大きな喜びの日でした。

ところで、皆さんの多くは、修道院って、自由がないでしょう、とか、外出できないんでしょうなど、最初からマイナスのイメージで私に質問してきます。知らないゆえの誤解なので、機会があったら話したいと思っていました。ちょうど良い機会かと思いますので、今日は先ず、修道誓願についてお話しします。それは、福音的勧告と呼ばれる、貞潔、清貧、従順、の約束を自分の自由意志で神に誓うことで、その式が誓願式です。貞潔とは、神と人とを愛するために自ら進んで結婚生活を放棄し独身を選ぶこと、清貧とは、財産をすべて仲間と共有し、物から自由になり、神だけを頼る生き方、従順とは、修道会の長上の中にキリストを見出して従うことを意味します。この貞潔、清貧、従順は、イエス・キリストがこの世に遣わされて、人間として生きていた時の生き方そのものです。ですから、修道者は、イエス・キリストの生き方を自分の生き方として選んだことを式の中で教会と人々の前に公に表明するのです。

こう説明すると、修道者って完全な人というイメージを持たれそうですが、自分の弱さや欠点と向き合いながら誓願を生き、生涯を通して修道者となっていくのです。誓願を立てたから完全、ではなく、誓願を立てることが出発点です。

私の体験を一つお話しします。私は30代後半から6年間宗教の非常勤講師としてこの晃華に勤めていました。授業の日は金曜日でした。当時の私は教壇に立つのがすごく嫌だったので金曜日は地獄のような日でした。それで、地獄の金曜日と言い、シスターたちに祈りをお願いしました。数年経ったある日、あるシスターが、“最近地獄の金曜日と言わなくなったけどもう大丈夫?”と私に声をかけてくれました。そのシスターは忠実に祈ってくれていたのでした。修道院は不完全な人間の集まりだからこそ、お互いに助け合うのです。因みに、私が地獄の金曜日と言っていたので、その当時宗教科の主任をしていたシスターから叱られまして、言葉の上では『花の金曜日』と言うことにしました。遊び心です。今では懐かしい思い出です。

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