来週、四ッ谷の聖イグナチオ教会に中高全員でイースター行事に行きます。全校生徒900名以上、教員を含めて1000人近くが入れる教会はなかなかありません。そこで、中2以上は知っているかと思いますが、中1の皆さんのためにも少しだけ建物の説明をしたいと思います。
皆さんがミサにあずかる聖イグナチオ教会の主聖堂はイースター・復活祭にふさわしい構造をしています。
まず正面にはイエス像がありますが、たとえば皆さんの教室の正面にある、十字架に磔になったイエス像ではありません。私たちを招くように両手を下に広げた大きなイエス像があり、十字架はその後ろに跡形のようにうすく表現されています。これが復活のイエス像です。磔の像でないのは、カトリック教会ではかなり珍しいものです。
座席の周りには美しいステンドグラスとともに、大きな柱が12本並んでいます。この柱は12使徒を表しており、それぞれの柱には使徒の名前が書かれたプレートが付けられています。
建物の形は楕円形で、イースターの象徴である卵を表現しています。つまり、イースターエッグを連想させる卵形の教会で、十字架から解放された復活のイエス像の周りに、12使徒みんなが集まり、皆さんと共にイースターをお祝いする、ということになるのです。まさにイースター行事にぴったりの教会です。
さて、今日は12使徒の一人、トマスについて話をしたいと思います。
イエスが十字架上で殺されて葬られた後、墓には亜麻布だけが残されていました。そんな中、弟子たちは自分たちも殺されるかと思い、建物に鍵をかけて隠れていると、彼らの真ん中にイエスが現れ、復活した証拠に傷ついた手と脇腹をお見せになりました。ところが、この時トマスは外出しており、ご復活のイエスにお会いすることができなかったのです。ヨハネ福音書には次のようにあります。
『ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』
このトマスの姿はまるで疑り深いわれわれ現代人のようです。何にでも証拠を求めたがります。しかし、この時のトマスの状況をよく考えてみると、われわれとはちょっと事情が異なります。他の弟子たちの前には現れて、自分だけが見ていないのです。正直言って、トマスは悔しかったのではないでしょうか?
ここで、「疑う」という態度にも2種類あることが分かります。最初からイエスの復活を信じるつもりがなくて「疑う」のと、イエスの復活を信じたくて「疑う」というものです。現代人は前者、トマスは後者ということになるでしょうか。
さて、その8日後、イエスはトマスの前にも現れます。
『戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』
トマスは、自分の傷跡に手を入れろというイエスの言葉には従わず、即座に「わたしの主、わたしの神よ」と答えています。イエスの復活を信じたくて証拠をほしがったトマス、イエス様にもう一度会いたかったトマスの目の前に、ついにイエス様が現れて、「わたしを見たから信じたのか」と直接叱って下さったのです。もはや傷跡に手を入れる必要があるでしょうか。
2000年経った今でもキリスト教の信者が存在しているのは、イエスが「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃったからではないでしょうか。それからまた、この話を読むと、皆さんもよく知っている「本当に大切なものは目に見えない」という星の王子様に出てくる有名な言葉も思い出したりします。
聖イグナチオ教会に行ったら、トマスの柱をさがし、そこから復活のイエス像を見て、この話に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。