2026年度

先生のお話(2026年6月20日の宗教朝礼より)

投稿日2026/10/8

晃華学園では毎週土曜日、全校生徒にむけて教員が自分の考えを放送で語ります。
生徒にとっては、カトリックの価値観はもちろん、教員個人の多様な価値観に触れ、自らの価値観について考える機会となっています。

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今から10年ほど前、中学1年生の担任になることが決まりました。 

担任達の会議の中で、学年主任の先生が問います。「この学年の学習について考えていってくれる人」。 

「私がやります。」私は自ら名乗り出ました。しかし、当時の私は教員2年目。学習指導を語るには経験も哲学も足りません。分からなければ質問すればいい。さっそく、当時第二職員室にいたベテラン教員の元を訪ねました。 

私は単刀直入に聞きます。「晃華学園の学びは何のためですか?」。 

当時の私には疑問がありました。私は高校まで公立学校育ち。学力とは自分が偏差値を上げ、学歴競争に打ち勝つためのもの。学力は自分のためのもの。そんな私にとって、「人のために、人と共に」を掲げる晃華学園が、学力を追い求めることに、疑問を感じていたのです。 

「晃華学園の学びは何のため?」
ベテラン教員はあっけらかんと答えます。「そんなの決ってるじゃないですか。他者のためですよ」。 

この学校での学びは単なる自己実現に留まらず、まだ見ぬ誰かを支えることを目指します。このベテラン教員とのやりとりで、私の視界は一気に開けました。「自分のためだけに学ぶ」という学びの意味に、私はどこかで息苦しさを感じていました。そんな私を、解放してくれました。 

 晃華学園の学びの意味を理解しましたが、今度はそれを中学1年生に伝えねばなりません。考えに考え、私が使った言葉が「周りの人々を笑顔にできるようになるために」という言葉でした。この言葉を進路学習指導の折に触れ使い続けました。 

表現の仕方は違えど、「他者のために」という学びの意味を、生徒の皆さんは、きっと様々な形で耳にしているはずです。 

しかし、「他者のために」という言葉に怖さも感じています。数年前、卒業生が大学の専門分野を選ぶ際に、相談に来ました。その卒業生は読書家で、中高時代には文学系の学部を志望していました。ところが、大学生になったその卒業生が、文学から距離を取り、必死に「人の役に立つ学問」を探しているように見えました。 

私は自分に問いかけます。その卒業生の中で「笑顔にできるようになるために」がいつしか、「笑顔にせねばならない」という焦りに、もっと言えば「役に立たねばならない」という焦りに変わっているのはないか。 

その焦りは、何らかの壁にぶつかり、うまくいかずふさぎこむ生徒を、「お前は役に立たない人間だ」と、追い込む刃になっているのではないか。 

少なくとも、その卒業生を焦らせるだけの言葉を私が紡いだと、私は自覚するようにしました。 

「晃華学園の学びは何のため?」 

当たり前ではありますが、私達は、自ら不自由になるために、自らを苦しめるために学んでいるのではありません。 

そもそもカトリック学校である晃華学園は、生徒一人一人を大切な存在だと考えています。人の役に立とうが立つまいが、そんなことはどうだっていい。そしてそもそも、カトリック学校での学びを通じて得られるのは、私たちに正義がどこにあるのか教えてくれるものであり、私たちを苦しみから救ってくれるものであるはずです。学力というよりも、聖書の言葉を借りれば、それは知恵です。 

 もし、「他者のために」学ぶことが苦しくなった時、壁なんか越えられないとふさぎ込んだ時、どんな状況であっても、皆さんを肯定する教員たちがここにいることを思い起こして下さい。そして、「他者のため」から少し離れているように見えたとしても、正義を目指し学び続けて下さい。皆さんに自覚はなくとも、その生き様だって誰かを笑顔にし、きっと輝いています。知恵と、知恵を追い求める姿は輝かしいのです。 

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