2024年度

先生のお話(2024年11月9日の宗教朝礼より)

投稿日2025/1/10

晃華学園では毎週土曜日、全校生徒にむけて教員が自分の考えを放送で語ります。
生徒にとっては、カトリックの価値観はもちろん、教員個人の多様な価値観に触れ、自らの価値観について考える機会となっています。

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皆さんが朝礼で歌っている聖歌には、一つ一つ、祈るためのメッセージが込められています。今週の聖歌「いつくしみ深き」は、イエス様を讃え、感謝する歌です。今日はその「いつくしみ深き」に込められたメッセージを皆さんと分かち合えたらと思います。

日本とフィリピンのハーフである私のもとに、5年前のある日、突然連絡が入りました。祖父が突然倒れ、危篤であるという連絡でした。その日にフィリピンに行ける飛行機はなく、すぐ翌日の飛行機を調べ、なんとか母の分の航空券だけ確保できました。この時私は、せめて母だけでも、祖父とお別れができればという思いでした。

翌朝、母を見送ってから数時間後、母はまだ飛行機に乗っている時間、親戚から電話がありました。祖父が息を引き取ったという知らせでした。正直、電話で何を話したかよく覚えていません。飛行機を降りてそのことを知ったときの母の気持ちを考えると、苦しくて仕方ありませんでしたし、私自身も、もう祖父に会えない現実がつらく、涙がとまりませんでした。

現地の親戚とのやり取りはフェイスブックを通じて行っていたのですが、私が連絡をしようとフェイスブックを開いた際に偶然、”What a friend we have in Jesus”、日本語訳で「素晴らしい友であるイエス」という投稿が目に入りました。詳しく見てみるとそれは聖歌で、私の知っている「いつくしみ深き」の原曲でした。

悲しみを一人で背負う必要はない。
イエスが友だちとして近くにいて、悲しみを分かち合ってくださる。
だから信じて祈りなさい。

そのような歌詞に、私は気持ちが救われたのを覚えています。そのときの投稿が、誰かが祖父のために祈って投稿してくれたのか、本当に偶然だったのかはわかりませんが、今考えると、一人で辛さを感じている私を、神様が導いてくださったのかなと思っています。

祖父の死から5年、私はそれに向き合えるようになりました。そして、「いつくしみ深き」の本当の意味は、一緒に重荷を背負ってくださるイエス様に感謝するだけでなく、自分自身も、他者の支えとなる「友」になりなさい。ということであると考えています。イエス様は聖書でこのように言っています。

「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」

ここでの「友」とは、単なる「友だち」よりも広い意味があるはずです。私は「背景に関係のない人格的な関係性」と解釈しています。もっとざっくりいうと「立場や性格の合う・合わないに関わらず相手を大切にできる関係性」と考えています。

なので、私は、学校では「教員」としてよりもまず、「友」として皆さんの力になりたいと思っています。「教員だから」授業や面談をするのではなく、「友」として、皆さんの楽しい学校生活と充実した将来のために、「命を捨てたい」と思っています。もちろん文字通りの意味でなく、「自分の全力を尽くして、持っているものをすべて使って、友のためにできることをする」という意味です。

私はできの良い人間ではないので、できることは限られていますが、それでも少なくても「友のために命を使う人」であり続けようと思います。そして、皆さん一人一人が、今隣にいるクラスメイト、友だち、家族を大切し、笑顔や幸せのためにできることをみつけてくれることを願っています。

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