晃華学園では毎週土曜日、全校生徒にむけて教員が自分の考えを放送で語ります。
生徒にとっては、カトリックの価値観はもちろん、教員個人の多様な価値観に触れ、自らの価値観について考える機会となっています。
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生徒に対して朝礼で「挑戦しよう」と言うことがあります。中高生活というのは、新しいことに挑戦し、自分の知らない新たな一面に出会い、価値観をつくるべき時期です。
しかし、人に挑戦せよと言っている私は、これまでの人生でどんな挑戦をしてきたのでしょうか。色んな事に挑戦はしてきました。しかし、成功する可能性が低い挑戦は避けてきました。
私は大学、大学院の間に歴史学のあるテーマについて研究していました。ある時、大学の指導教授の先生から、「研究内容をまとめて、歴史学会の雑誌に投稿しませんか」と提案されました。そもそも大学院生の行っている研究は、雑誌などに掲載されて初めて世間に知られることになります。そうでなければ誰も知ることない研究で終わります。私は先生の提案の価値をよくわかっていました。しかし、論文が雑誌に掲載されるには多くのハードルがあります。一つに査読があります。その学問分野の専門家が論文を読んで、内容に問題ないか審査され、それをクリアした時に初めて、論文が雑誌に掲載されるのです。これを査読と言います。
指導教授が提案してきた歴史学会の雑誌は、有名な雑誌でした。提案を受けた際、私はすぐに「私なんかが無理です」と言ったように思います。その時の気持ちは、「私にはそんな能力はない」「私はそんな挑戦に値する人物ではない」「もし挑戦して、うまくいかなかったら周りからどう思われるだろうか」といったところでした。要するに自信がなかったのです。
結局私は、歴史学会の雑誌ではなく、大学が発行している雑誌に論文を投稿しました。大学のその雑誌も、1928年から発行されている歴史ある雑誌で査読もありました。そこに論文を通すことにもハードルはあります。ですがとにかく、歴史学会の雑誌よりハードルが低そうだと思って、論文を投稿し掲載されました。つまり私は、成功する可能性が低そうな挑戦を避けて、成功する可能性の高そうな挑戦を選んだのです。そしてそれはこの一度に限りません。
それから少し経ち教員になった私は、多くの高校生と面談をすることになりました。すると今度は、「私なんかが」という言葉を、生徒の皆さんから聞くようになりました。
越えられそうにない壁を前に、「私なんかが無理です」「私はそんな挑戦に値する人物ではない」とついつい考えてしまう人も多いのではないでしょうか?
しかしながら長い人生、成功する可能性が高い挑戦だけでどうにかなるわけではありません。私自身、生徒を成長させるために、失敗するリスクを引き受けて、生徒とともに高い壁に挑まねばならないことが、ここ数年続いていました。そんな時、「私なんかが」と言っている場合ではありません。
生徒の皆さんが今いるその教室には「人のために、人と共に生きる「光り輝く華」に」という言葉が掲げられていますね。それを目指す限り、いずれ、リスクを背負って挑戦しなくてはならない場面があるはずです。まだ見ぬ誰かのために、解決したい課題のために、失敗を覚悟で挑まねばならない場面があるはずです。そんな時、「私なんかが」と言わずに、挑戦する自分でいるためにどうすればよいのでしょうか?
自信を持つことは簡単なことではありません。ですが複数の心理学者が共通して言っていることがあります。それは、あえて成功する可能性が低い挑戦をすること。そして、その挑戦が「自分にとって価値あるもの」と考えているとより良いです。周りから評価などどうでも良いのです。あなたにとって必要だと思う挑戦を、リスクを引き受けて続けることが、「私なんかが」という思いを小さくし、自信を持つ唯一の方法だそうです。
もし今、成功する可能性が低いと思われる挑戦に挑んでいる人は、それが成功しようが失敗しようが、その挑戦自体に価値があることを知ってください。そして、その挑戦を説明する際に、「どうせうまくいかないと思っているのですが」などという枕詞をつけず、胸を張って挑んでください。
最後にマザーテレサの言葉を紹介します。「神様は私達に成功してほしいとは思っていません。ただ挑戦する事を望んでいるだけ。」