皆さんは「天国泥棒」という言葉を知っていますか? キリスト教では、洗礼を受けると、それまでに犯した罪が赦されることから、死の間際に洗礼を受けることを指す言葉です。
昨年の秋、病院から連絡があり、父の容態が悪化しているとの知らせを受けました。文化祭前でしたので、面会を数日延ばしてもらえないかと確認すると、「それでは霊安室でのご対面になります。」と言われ、急を要する深刻な事態だと察しました。
慌てて病院に向かう準備をしながら、真っ先に考えたのは、父の「天国泥棒」、すなわち「臨終洗礼」のことです。6年前に亡くなった母は熱心なクリスチャンで、生前から父が洗礼を受けることを望んでおり、私はそれを母の遺言として受け止めていました。いつかはその日が来る、いよいよその時かもしれないと思い、すぐに永年お世話になってきた教会の神父様とシスターに電話をして、父の「臨終洗礼」について相談しました。コロナ禍での面会で、宗教者であっても、家族以外の立ち会いはできません。事情をよくご存じの神父様は、きっぱりと「あなたに託します。あなたがお父様に洗礼を授けて下さい」と仰いました。
実は、私が子どもの頃から、両親はキリスト教をめぐって、よく夫婦げんかをしていました。父方の親戚には、クリスチャンである母との結婚に反対する声も多かったと聞きます。キリスト教信者の占める割合は、日本の人口の1%未満に過ぎません。国語の課題図書になっている三浦綾子さんの『塩狩峠』で、主人公の少年は、お母さんはすでに亡くなったと聞かされて育ちますが、ある時、祖母がキリスト教徒である嫁を追い出してしまったことを知ります。これは明治時代の話ですが、キリスト教に対する見方は、私の子ども時代、昭和の頃も多かれ少なかれ続いていたように思います。承知の上で結婚したと言っても、母が教会の仕事ばかり優先したり、ご近所さんにも聖書の話を説いたりするのを、父は苦々しく思っていました。日曜日になると、父は門前に立ちはだかり、教会へ行こうとする母を遮ったり、「子どもは置いていけ」と押し問答になったりして、毎週繰り広げられる「家庭内宗教戦争」にうんざりしていました。子どもにとっては、両親が仲良くしている状態が望ましいので、キリスト教に熱心すぎる母も、クリスチャンを「耶蘇」と罵る父も本当に困った親だと思い、学校では社会の授業で「キリシタン禁教令」や十字軍の遠征の話になると、宗教が原因で迫害や虐殺が繰り返される歴史を聴きながら、身の置き所のないつらさを味わっていました。
私自身は、このような葛藤の中で、高校時代にカトリックの洗礼を受けたのですが、父には内緒の「家庭内隠れキリシタン」でしたし、「宗教2世」という言葉を聞くと、人ごととは思えず、胸にうずきを感じます。
さて、父の病床には私の叔母と妹と3人で向かいました。対面した父は、誤嚥性肺炎を起こしており、呼吸器につながれてすでに意識はなく、手はグローブをはめたように膨張していましたが、触れるとまだ温もりがありました。病院のスタッフには「臨終洗礼」を授けることを伝え、叔母が持っていた「ルルドの聖水」を使って、十字を切りました。与えられた時間はわずか数分間、家族の立ち会いを待って、医師による死亡宣告が行われました。父はがんや心臓病を患い、晩年は認知症のために一人暮らしが難しいと判断されてからは、高齢者施設で過ごしていました。母が亡くなってからは、妹と私が遠距離介護をしていましたが、コロナ禍で面会が制限され、毎月1回、自動ドア越しに15分程度のやりとりを重ねていました。はじめは実家の管理を気にしたり、差し入れのお菓子を食べたりして嬉しそうにしていた父も、次第に表情がうつろになり、私たち娘のことも分からない状態になっていきました。認知症の初期症状は、怒りっぽくなり、特に家族に八つ当たりをするため、私と妹はほとほと泣かされましたが、通院の付き添いで大げんかをしたこと、収集癖によりスーパーの段ボールやハンガーをたくさん持ってきてしまうこと、徘徊が始まり警察に捜索願を出したことなどを思い出しながら、もう少し優しくしてあげれば良かった、もっと一緒にいてあげれば良かった、と後悔の気持ちが湧いてきます。臨終洗礼に関しては、もちろん父本人に了解を得ていません。これで良かったのか確信は持てませんでした。
私が「本当にこれでよかった」と思えたのは、中三の人は覚えていると思いますが、昨年の静修会に来て下さった山内保憲神父様のお話を聞いた時です。イエズス会の高齢となられた神父様たちの介護に関わるお仕事をされており、いのちの大切さについて、笑いあり涙ありの素晴らしいお話をされ、最後に認知症の神父様のお話をして下さったのです。90歳を越えた神父様が、夕方になると「お母さんに会いたい」と言って、出て行こうとするエピソードに父を重ねて聞いていました。「本当に幼子にならなければ、天国には入れない。認知症になることで、もう一度子どもに戻るチャンスを与えられているのです。」という言葉を聞いた時、両親の闘病生活の困難、今までの介護の苦労や迷いなどがスーッと消えて、清められていくのを感じました。認知症に関する本はいろいろ読んでいましたが、認知症が魂の救いにつながる、と言われたのは初めてでした。
ちなみに父の洗礼名はイエスに洗礼を授けた「洗者ヨハネ」、母の洗礼名はイエスの復活を最初に目撃した「マグダラのマリア」です。天国の住人となった二人は、さすがに派手な夫婦げんかはせずに仲良くしていることでしょう。
明日の「母の日」は、「お母さん」を含めて、家族が互いをいたわる日になりますように。超高齢社会となった日本では、皆さんのご家族にも、介護を必要とされる方がいらっしゃるかもしれません。先日の聖母月行事でお話された曽田夏記さん(本校OG)のように、ヤングケアラーとして介護に関わっている人もいるかもしれません。いのちを支える大切な役目をされている方々に大きな恵みが与えられますように祈りつつ、結びの言葉といたします。