2019年度

4月13日 宗教朝礼より

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投稿日2019/4/15

皆さんは,朝,登校前に,テレビ番組などで「血液型占い」や「星座占い」による本日の「運勢」を見ますでしょうか?いや,毎朝は見ないけれども,雑誌やインターネットなどで自分の「運勢」について確認するといった人もいるのではないでしょうか?

また,一年のサイクルで見た場合,新年を迎える前に,来年のあなたの「運勢」は?といった書籍などが流行りますし,また,初詣などで神社や仏閣などに行った際には,吉凶を占うためのくじである「おみくじ」を引くこともあるでしょう。

いずれにせよ,「先の未来」について,さまざまな形で「運・運勢」や「吉凶」を知る機会に溢れています。では,このように「先の未来」の「運勢」や「吉凶」を知った時,皆さんはどうしますでしょうか?

ある人は,「ふーん,そうなの?」といった程度で,その場限りのことで終わるでしょうし,別のある人は,マイナスの要因については心に留めて,注意していこうとするかもしれません。いやそれにとどまらず,厄払いではありませんが,御祓いをする人もいるかもしれません。

私自身はというと,このような類の番組がテレビなどでついていると,すぐさまチャンネルを変えます。つまりは「見たくない」,「知りたくない」というのが本心といったところです。

その一方で,私たちは,日常生活において,例えば「自動販売機でジュースを買った際に,もう一本当たった」り,「アーティストのライブに行った際に,普段は歌うことがない楽曲を歌ってくれた」り,「普段は待たないと入れない飲食店に行った際に,待ち時間なく入れた」りなどの機会に恵まれると,「運がいいなぁ」とか「ラッキー」などと口にすることはありませんか?

また,逆に,「テーマパークに行った際に,普段は待ち時間なく楽しめるものが,長蛇の列になっていた」り,「本を買って帰ったら,家族の別の人が同じ本を買っていた」り,「天気予報では降水確率0%で,傘を持っていなかったら,雨に降られた」りなどの機会に遭うと,私たちは「運が悪い」とか「ついていない」などとつぶやいたりすることがありませんか?

このように「起こった出来事」に対しても「運」,《Luck》という言葉は用いられます。つまり,「幸・不幸,世の中の動きなどを支配する,人知・人力の及ばないなりゆき」であり,《unknown and unpredictable phenomenon》であります。

そして,思いがけない「不運」や「不幸」に遭った時,その軽重によっては,「どうしてなのだろうか?」「いったい何が悪かったのだろうか?」と,原因を考えてしまいます。しかし,いくら原因について考えても答えは出せません。それは「人知・人力が及ばない」からでもあります。でも,私たちは苛立ったり,不安になったりします。

では,そのような時に,どうすればよいのでしょうか?その一つとして,「プラス思考」や「ポジティブ・シンキング」があります。これは脳科学からみても,「困難なときに運が良い」と思えている人ほど,「問題解決能力」が飛躍的に高まっていることが証明されてもいるそうです。

聖書においても「ヤコブの手紙」の1章2節に「わたしの兄弟たち,いろいろな試練に出会うときは,この上ない喜びと思いなさい」とあります。

そうはいっても,「試練を喜び」と思うほど,私自身は正直そこまで「プラス思考」にはなれない自分がいます。もしかしたら,みなさんの中にも同じような人がいるかもしれません。しかし,聖書の別の個所には次のような一節もあり,こちらの方が私は腑に落ちます。

「あなたがたを襲った試練で,人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず,試練と共に,それに耐えられるよう,逃れる道をも備えていてくださいます」(「コリントの信徒への手紙 一」の10章13節)。

これで話を終わります。

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