2018年度

自分を磨き続けることができるように(宗教朝礼より)

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投稿日2018/12/26

10年とちょっと前、私は高校生でした。マイナーな“ソフトテニス”という競技に青春のほとんどを捧げました。練習は週7日、頭は坊主、服は毎日ジャージでした。
ずっと補欠だった私は、どうしてもレギュラーに入りたくて、毎日毎日6:45から朝練に行っていました。それでも、個人戦でどんなにいい成績を収めても、部内戦でどんなに勝っても、顧問の先生から団体戦のレギュラーに選ばれることはありませんでした。

私の朝練に毎日付き合ってくれていたのは、同級生の○○くんでした。彼は部長で、寡黙で、当然私と違ってレギュラーで、粘り強いプレースタイルと重心の低さと厚い握りが特徴でした。私が苦手としていたバックハンドレシーブを、本当に毎日面倒見てくれていました。団体戦で試合する姿は本当にかっこよく、彼にあこがれると同時に「いつか必ず追い抜いて、顧問に認められてやる!!」と思っていました。

高2のある日、△△大会という個人戦がありました。この大会は、予選を勝ち抜いてベスト16に残ると、大きくて立派な体育館で試合することができるんですね。私の代で予選を通過したのは、私のペアと彼のペアの2チームだけ。
「こいつはレギュラーになるチャンスだ!!」と思い、予選から本戦までの間の一週間、死に物狂いで練習しました。彼も珍しく、声に出して「今回は勝ちたい」と言っていました。普段そういうことは全く言わない人だったので、私は驚きました。

当日、私は嬉しいことに第3位でした。それに対し、彼は最初の試合で負けてしまい、ベスト16でした。彼は本当に悔しかったのか、これまた珍しく泣いていました。それを見た私の心には、一緒に頑張ってきたそいつの悔し涙に同情する気持ちに隠れて、「これまで俺がどれだけ悔しい想いをしてきたかわかったか!!」という、残酷な気持ちが確かに存在していました。

 

しばらくした後、彼が部活に来なくなりました。
学校には来ていましたし、相変わらず部活関連の連絡などはやってくれていたのですが、元気はあまりありませんでした。部活を欠席することなんて顧問が許すわけはないのに、別に怒られていないところをみると、何か事情があるのかなー、ということには気づいていました。
私は何度も声をかけましたが、「今はちょっとね」の一点張りでした。その時私は残酷にも、あんなに毎日朝練に協力してくれていた友人に対し、対した心配もせずに「この隙に追いついてやる!」なんてことを考えてしまっていました。

それからすぐに、彼のお母さんがこの世を去りました。葬儀で、彼はすっかりやつれた姿で座っていました。私はその時はじめて、彼がなぜ珍しく勝ちたいと口にしていたのか、なぜ負けてあんなに泣いていたのか、なぜ部活に来られなかったのかを理解しました。こんなに自分のことを恥じた日はありませんでした。

次の日の朝6:45のことは、鮮明に覚えています。部室に行くと、彼はグリップを巻いて待ってくれていました。そして私を見るや否や、「お前の足音かなって思ったよ。おはよう、昨日はありがとう。」と言いました。
私は涙が止まりませんでした。「何もできなくてごめん。何で部活こねーんだよって思ってた。」「ありがとうなんて言うなよ。」「つらいのはそっちなのに勝手に泣いてごめん。」とかなんとか、言葉にならないようなそんなようなことを言いました。彼は、笑って許してくれました。

その日の朝練の後、彼は私に「久しぶりに打ったけど、まだまだお前には勝てるわ!レギュラーは渡さん!」と冗談半分に言いました。そいつは一番上手かったので、私と変わってレギュラーから落ちることはないのに、です。
この一言で、私はまたレギュラー目指して頑張ることを決めました。しかも、他人を蹴落とすのではなく、自分を磨き続けることができるように、頑張ることを決めました。

 

最後に、マザー・テレサがイエス・キリストに向けて日々捧げていたとされるお祈りの言葉を紹介します。

イエスよ わたしを解放してください

愛されたいという思いから

評価されたいという思いから

重んじられたいという思いから

ほめられたいという思いから

好まれたいという思いから

相談されたいという思いから

認められたいという思いから

有名になりたいという思いから

侮辱されることへの恐れから

見下されることへの恐れから

非難される苦しみへの恐れから

中傷される苦しみへの恐れから

忘れられることへの恐れから

誤解されることへの恐れから

からかわれることへの恐れから

疑われることへの恐れから

以上で話を終わります。最後まで聞いてくれて、ありがとうございました。

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