今ここにいる私たち一人ひとりが、名字と名前を持っています。生まれた時、あるいは生まれる前から、ご両親、祖父母の方、親戚などから名前をつけてもらったでしょう。
私たちが持っている名前はこの世で生活するにためになくてはならないもので、その人がその人であることを示すものの一つです。ですから、悲しいことですが、私たちは誰かを嫌いになるとその人の名前を呼びたくなくなります。反対に、誰かを好きになると、その人の名前は大事な大事な宝物のようになります。大切な人の名前をそっと呼んでみると、心の中があたたかくなりませんか。
ある本で知ったことですが、フランスで大量の死者が出た最初の事件は、機関銃などの近代兵器が使われた第一次世界大戦で、18歳から27歳の4人に一人が亡くなったそうです。その時、死んでいく兵士を1番支えたのは何かというと、「名前を聞く」ということだったといいます。
「あなたの名前はなんですか」と問う従軍司祭に自分の名前は誰それですと言い、従軍司祭がノートにその名前を書き留めるために「あなたは○○さんですね」と繰り返し言った時、兵士の表情に明らかに安らぎが見て取れたのだそうです。死にゆく兵士にとって名前を確認されることは存在の証だったのでしょう。胸が打たれる話です。
ところで、私たち一人ひとりにはもう一つの名前があります。神がその人につけたその人固有の名前です。その名前は生きているときはわからないかも知れないし、知りたいと思えば、そのために祈っているうちに気づかされるかもしれません。実際に、神が呼ばれる自分の名前を見出した人もいます。
「名前で呼ばれる」ということは、聖書を貫いている基本的なテーマの一つです。天地創造の物語で、神は創造の業を完成するにあたり、被造物に昼・夜・天・地・海などの名前をつけ、天地の森羅万象をその名で呼ばれます。また、イザヤ書49章1節には「主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」とあります。
神が人をその人固有の名前で呼ばれるという意味は、その人が神にとって大事な存在だということです。私たちもペットを飼えばそのペットがかわいいから名前をつけます。犬犬とかネコネコとか呼ばないですよね。人によっては年賀状にそのペットの名前も家族の名前の中に加えています。神もそのように、ご自分が造られた一人ひとりがかけがえのない大切な存在だからその人にしかない名前をつけるのです。
人は、神がその名を呼んだからこの世に生まれ、またその名を呼ばれたから別の世界に行くためにこの世を去ります。
自分には神が呼ばれる名前があると言うことを心に留めてみてください。