私は高校まで岐阜の田舎で育ち、ほとんどキリスト教とは無縁な環境だったのですが、カトリック系の大学の物理学科に進学し上京しました。
物理学科には、神父様の教授が何人もいらして、私はたいへん困惑しました。神様の存在や奇跡を信じることと、最先端の物理を研究することが、矛盾しているとしか思えなかったからです。ガリレオが地動説を唱えて宗教裁判で有罪になったことも、印象深く、みなさんの中にもそう考える人が少なからずいることでしょう。
その後、私は物理学そのものよりも、その歴史や哲学的な側面に興味を持つようになりました。卒業研究は、日本ではじめてニュートンの著書プリンキピアを翻訳した志筑忠雄についてでした。日本にまったく概念のない物理用語、たとえばForceとかMassといった言葉をどのような日本語に置き換えるのか、彼の翻訳の苦労は想像するに難くありません。私は英語が得意ではありませんが、訳語が定着した今日でも、物理の本は英語の方がずっとわかりやすいと感じます。
勉強を重ねていくうちに、異国の学問である物理を理解するためにはそのバックグラウンドとなるキリスト教の理解は不可欠であると思うようになりました。さらに私は、信者になれば大好きな大好きな物理の本質を知ることができるのではないかと考えました。よく、どうして信者になったのですかと聞かれるのですが、ほんとうにこのような不遜な考えで洗礼を受けました。この場をお借りして、神父様やシスター、信者の皆様に、そして何より神様にお詫びしたいと思います。
しかし、わたしの考えは大当たりでした。ガリレオ、ニュートンをはじめ、多くの物理学者は敬虔なキリスト教信者であり、神のみわざを知ることをモチベーションに研究に邁進したことがよくわかったからです。中でも中学2年生以上の人がよく知っているファラデーは、何もない空間にも神の意志が宿ると考え、磁場や電磁誘導の発想を得たと知った時、そうだったのかと痛く感じ入りました。みなさんもファラデーのおかげで、空間を飛び交う電波を利用したスマホなどを活用できているのです。ファラデーの信仰が強くなかったら、今頃、昔ながらの線のつながった電話以上の発展はなかったはずです。
さて、唐突ですが、将棋の羽生善治さんは、永世名人になったとき、自分はまだまだ将棋が何たるかをわかっていないとおっしゃったことに私は衝撃をうけました。将棋は人間が考え出したルールにのっとって行う単なるゲームなのに、わからない、しかも永世名人になった人がわからないとはどういうことなのだろうと思います。
物理も、人間が、自然を理解するために考え出したアプローチ、方法論、枠組みに過ぎません。それなのに、まだ力とは何か、質量とは何か、明確な答えは得られていません。将棋にしろ物理にしろ、すべて理解している存在が神様なのではないでしょうか。そして、私たちは神様の偉大さに畏敬の念を抱きつつも一歩ずつ近づいていく努力をする存在なのではないかと思う、今日この頃です。