2017年度

1月27日の宗教朝礼より

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投稿日2018/2/8

今日は先日行った書道展で感じたことをお話します。

その書道展は、現在活躍する20名の書家達の展覧会でした。多くの書家達の作品が一堂に会しているので、比較していくとそれぞれ個性が際立ち、とても見応えがありました。

その展覧会は、書家達の作品とともにコメントも展示されているというスタイルでしたが、ある書家のコメントがとても興味深いものでした。

それはその書家が、作品を作る過程について述べたものであったのですが、書く題材、つまり、文字や言葉を選ぶときにその意味には全くこだわらない、というものでした。文字や言葉には、意味と形という二つの要素がありますが、作品を表現する上で、文字や言葉の形にのみこだわり、意味は作品が仕上がってから調べることもある、というのです。文字や言葉の意味をどう表現するか、ということに関しては無限の可能性があるので、そこにすべてのエネルギーをそそぎ、何万枚と推敲を重ねてゆく、というものでした。

私は今まで文字や言葉の意味にもこだわって作品を作りたいと思っていたので、最初はとても意外でしたが、そのうちそれも一つのスタンスなのか、と思いました。なぜなら、私は今まで意味にこだわりすぎて、肝心などう表現してゆくか、という推敲に時間がとれない不本意なまま仕上げる、ということが多くあったからです。

その書家のコメントで私はいかに文字や言葉にこだわりすぎていたか、ということに気づきました。こだわりすぎることによって、自分らしい表現が不自由になっていたな、と感じ、これからは自分らしい表現のできるスタンスを探っていこうと思いました。そして、同時に思ったのは、それは何にでも言えることなのでは、ということです。何か事を成そうとする時、こだわりを持つということはとても大切なことですが、行き過ぎてしまうとかえってそのこだわりが、手枷足枷になる場合もあるのかもしれない、ということです。

たとえば「職業」に当てはめて考えてみました。どんな職業につくのか、ということも大事だけれど、自分らしくどう働くのか、といことには、さらにもっと選択の可能性が広がります。職業にこだわりすぎると可能性をふいにすることがあるかもしれません。そしてその職業が自分にとって不自由なもの、不本意なものになってしまうかもしれません。

どこにどのくらいこだわるのか、という自分らしいスタンスを決めて、どう自分らしく働いてゆくのかを探り続けることなのではないかと思いました。

大学、職業、人生をそれぞれ、どう学び、どう働き、どう生きるのか、と考えること、それはあたかも自分の作品づくりのようであり、百人百様の自分らしさの追求であるのではないかと思います。

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