2017年度

6月10日の宗教朝礼から

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投稿日2017/6/10

今日は私が小学校・大学院・中高で経験した、3つのお話をしたいと思います。

私が小学生のとき、学校から帰ってから塾に行くまでの間、親は仕事に行っていたので家で一人で勉強をしていました。しかし日曜に実施される模試でなかなか点数が上がらず、親からは「一人でいるときにちゃんと勉強をしているのか?」と言われましたし、酷く怒られたこともありました。どうせ誰も見てないし、しかも結果は悪いんだから、勉強なんかやめてしまおう!とも思いました。が、その度胸はありませんでしたし、塾の友達には負けたくなかったので、勉強は続けていました。それでも模試の結果はあまり良くはならず、その度怒られていました。

大学院時代に私が所属していたゼミは、数学の専門書を読み、その内容を教授の前で発表するという形式で行われていました。そもそもの内容のレベルの高さに加え、教授からの質問のレベルがとても高いため、色々な専門書を読み、念入りに準備をしていました。しかしとある日、教授からの質問に全く答えられない場面があり、「君はちゃんと準備をしているのか。こんな証明は猫でもわかる。」と言われ、その後も嫌味を言われ続けました。全てを否定された気分になった私は、2年間続けれらる自信が見事になくなり、辞めてしまおうかと真剣に考えてしまったこともありました。

しかしある夜、大学を終え家路についていたとき、同じゼミに在籍する同期が一人図書館に籠り、沢山の本に囲まれ勉強している姿を見ました。彼はその日教授からひどく怒られていたのです。普段は遊んでいるイメージが強い彼でしたが、本気で勉強している姿を見たのはその時が初めてでした。私はその姿を見て「みんなこんなに陰で努力しているんだ。やるべきことをやってから辞めるかどうかは考えよう。」という気持ちになり、その後も怒られることが多かったものの、なんとか辞めずに続けることが出来ました。恐らくその同期の姿をあの日見なければ、続けられなかったかもしれません。人が頑張っている姿に勇気づけられた瞬間でした。

今振り返ってみると、小学生・大学院生の時のこれらの経験は、「あのとき逃げずにやっていけたんだからこれからも大丈夫だろう。」という前向きな気持ちに変わっていることに気付きました。

 

とある人の言葉に『自分の努力によって勇気づけられている人がいる。もし誰も見てなくても将来の自分が見ている。』というものがあります。これは私の心に凄く響いた言葉です。

中高時代、私はソフトボール部に在籍していました。部活が終わったあとの夜、家の近くの公園でよく素振りをしていました。しかしいくらやっても、練習試合では打てるヒットを、公式戦ではあまり打つことができませんでした。先輩やキャプテンから、「お前は自主練をやっているのか。」と言われることもありました。「何も知らないくせに。どうせ打てないからもういいや。」と思い、自主練はやめてしまいました。やはり、試合で打てることはほとんどありませんでした。打てなかったとき、自主練をちゃんとやっておけば良かった、と後悔しました。でも自主練をやってなかったから打てなかったんだ、だから仕方ない、と物凄く低いレベルで納得してしまっている自分もいました。結局自主練は再開されることはありませんでした。

この経験で学んだことは、人は結果にではなく手を抜いた自分に後悔するということです。頑張ったけど良い結果が得られなかったときは、どうすれば良くなるのか考え、次に活かすことができますが、妥協して良い結果が得られなかったときは、人は妥協した自分を恨みます。この後悔の念に苛まれると、そこからどうしても前に進みにくくなってしまいます。そしてそれを繰り返しているうちに、妥協することに慣れ、後悔すらしなくなってしまいます。

 

今みなさんは、勉強や部活動などで色々な努力をしていると思います。その努力の中には、周りの人から気付かれていないことも沢山あると思いますし、なかなか結果が出ないことも沢山あると思います。でももしかしたら、あなたの頑張っている姿に感動してくれる、大学院時代の私のような人がいるかもしれません。そして何より、たとえ誰も見てくれていなかったとしても、将来の自分が見てくれています。たとえ結果が出なくても、何もしないままでいるのとでは大きく違うはずです。

そのことを頭の片隅において、これからもあなたの努力を続けていってもらえると嬉しいです。

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