2013年度

平成25年度 晃華学園中学校 修了式 学校長告辞(3月20日)

この記事は1年以上前の記事のため、内容が古い可能性があります。
投稿日2014/3/21

一雨ごとに木々の新芽が伸び、春の息吹が強く感じられる、この春のよき日に晃華学園中学校3か年の課程を修了される中学3年生の皆様、本日は中学のご卒業おめでとうございます。保護者の皆様にも、お子様のご卒業を心からお喜び申し上げます。

4日前に高校3年生が6年間の晃華学園での学業を終えて卒業していきましたが、中学卒業というのは、中高6年一貫教育の中では一見、形式的なもののように思われます。にもかかわらず、こうして中学の卒業式を行うのには、それなりの意味があり、形式と共に実質的な面もあります。

申すまでもなく日本の学校制度の中で、中学3年までは義務教育ということになっています。長い人生を自分の足で立って生きていくために、最低限これだけはという基礎的、基本的なことを年数を決めて色々教えていく。そのために国とか社会がそのような教育を誰でも受けられるように学校を作り、条件を整え、経済的にも保障するし、保護者にも子どもを学校に通わせるように義務付ける、それが義務教育です。今、その義務教育が終わったということは、皆さんが国民としての基礎的な力を身につけたと社会が認めたことを意味します。つまりこれから先は義務ではない、自分の責任で人生を歩んでいってくださいという意味です。実際には95%以上の人が高校に進学していますので、高校も準義務教育と言っていいのかもしれませんが、法律で定めた国としての義務、保護者としての義務、そして本人の義務としての教育は終わったので、中学卒業にはやはり一つの区切りとしての意味があります。義務教育を終える今、皆さんを今日まで育て、導き、支えてくださった多くの方々、特に皆さんをいつも大きな愛情で包み世話をしてくださったご両親、細やかな配慮をもってご指導くださった先生方、嬉しい時、悲しい時にいつも傍にいてくれた友人たちに心から感謝しましょう。

4月から皆さんは他校に進学する人も含めて全員が高校に進学しますが、義務ではなく自分自身の意思で進学するのだということを再確認し自覚してください。そして4月から始まるのは「自分が望んでする勉強」であり「自分の意志で始める高校生活」である、すべては自分の責任のもとで自主的、主体的になされるのだという強い自覚と覚悟をもって、高校生になっていただきたいと思います。

ところで何のために学ぶのでしょうか? 何のために皆さんは義務教育終了後もなお高校に、更には大学に進学することを考えるのでしょうか。人間は意味のないことには耐えられないようにできています。そこに自分なりの意味を見つけ、目的を見つけているのでなければ、とても長い期間、一つの事をやり続けることはできません。義務教育が終わった今、なぜ学ぶのか、学び続けるのかという、この本質的な問いを自分に向けてください。

マタイ福音書には、「タレントのたとえ」(25:14〜30)という有名なたとえ話があります。主人(神)が旅に出るにあたり、自分の大切な財産を僕(しもべ―人間)に預けていきます。それぞれの能力に応じて、ある者には5タレント、別の者には2タレント、そしてもう一人の僕には1タレントを預け、財産を管理させます。やがて旅から帰ってきた主人は、財産の管理を任せた僕たちを呼んで精算を求めます。5タレントと2タレントを任せられた僕は、それを元手に商売をして別に5タレント、2タレントを儲け、主人に倍にして返し、2人とも大いに褒められます。しかし1タレントの僕は、穴を掘って土の中に埋めたままにしておいたので、主人から厳しく罰せられるという話です。

たとえ話は、話の隅々まで、何かに当てはめようとすると無理がありますが、このたとえ話が言いたいことは、第一に神が一人ひとりを信頼して預けてくださったものの大きさであり、神の桁外れの気前のよさです。そして問題になるのは、1タレント預かった僕がそれを穴を掘って埋めたままにしておいた、何も有効に活かそうとしなかったというその態度です。僕が預かったタレントですが、5タレント、2タレントと比べれば確かに少ない金額のように見えますが、実際は当時の労働者の6000日分、ほぼ生涯賃金に相当する額であり、決して少額ではなく、この僕も自分の能力に応じて自分の器一杯にいただいているのです。

さて私たちは神様から命をいただき、自分の存在のすべてをお預かりしています。私たちが神様からお預かりしているものを一つ一つ数え上げていったらどうでしょう。殆ど無限といっていい位ではないでしょうか。

ところで学校の学習は常に出来る人と出来ない人とに分かれますが、それは最近の脳科学によると頭の良し悪しによるものではありません。なぜなら人間の脳細胞は常に90数パーセントの余力を持っているからです。「もうできない」と投げ出したらそこまでですが、「もう少し頑張ってみよう」と励まされて努力を続けるなら、より以上の成果が得られます。成績の良し悪しは、与えられた脳の使い方、勉強に対する取り組み方の問題だということです。実際、本気になれば若い人は、驚くような成長と進歩を見せてくれます。ですから勉強だけでなく、スポーツでも、料理、裁縫でも、ピアノ、習字などの習い事でも、その他どんなことについても「自分の能力はこれが限界」などと軽々に言ってはいけないのです。

神様は一人ひとりに様々なタレントを預けて、それらがよく活用されることによって人類社会がより豊かになり、皆が幸せになることを望まれますが、その使い方は各自に任せておられます。なぜなら、神は人の協力なしに世界を造り、人を存在させられましたが、人の救いと世界の完成のためには人の協力を求められます。神に似たものとして造られ、理性と自由意志を備えた人格としての人間には、自ら知恵を働かせ、心を働かせ、皆の幸せのために進んで主体的に働く協力者であることを求めるのが相応しいと考えられるからです。

さて私たちにはどんなタレントが与えられているのでしょうか。「自分は何も持っていない」という人は、「貴重なタレントを穴を掘って、土の中に埋めておいた僕」と同様、命をくださった神を悲しませることになります。努力すれば、スポーツで、演劇で、音楽の世界で、或いは技術者として活躍できたかもしれないし、腕のよい料理人、或いはお医者さんになって多くの人から喜ばれ、感謝されたかもしれないのに、自分に与えられたタレントを使うことなく、何の実りももたらすことなく、ただ無為に生きたのです。これでは、いつの間にか持っていたつもりのものすら失ってしまい、役立たずの僕として外に追い出されてしまいます。

私たちにはきっと土の中に埋もれたままにしているタレントがたくさんあるのだと思います。これからの高校生活で、自分がお預かりしているタレントに目覚めることが出来るよう、様々な学びの場と機会を逃さず、色々なことにチャレンジすること、それが高校で学ぶことの目的だと思います。

 

 

page top