厳しい寒さに耐えた自然界に、再び新しい生命の息吹が満ち始めた春の喜びの中で、ご来賓と保護者のご臨席をいただき、こうして第48回卒業証書授与式を行うことが出来ますことを、心から感謝したいと思います。
只今、卒業証書を手にされた第48期生の皆様、ご卒業おめでとうございます。皆様は本日をもって、晃華学園中学校高等学校6ヵ年の全過程を修了されました。このことは同時に次のステップに踏み出す新たな門出、新たな旅立ちを意味しています。
ところで皆さんが晃華学園中学校に入学された2007年度は、制服が新しくなり、秋に新校舎も完成して学習環境が格段に改善され整備されて、学園に新しい風が吹き始めた年でした。そして卒業学年を迎えられた2012年度は中高が創立されて丁度50年目という大きな節目の年でもありました。古いものでも変えてならないものもあれば、勇気をもって変えていくべきものもあります。社会の変化、時代の動きに注意を向けながら、そんな見極めが学校に求められる6年間であったと思います。
この間、皆さんが高校1年生の3学期末を迎えた時に、千年に一度という東日本大震災が起こり、同時に福島第一原発の事故という深刻な事態が発生しました。日本だけではなく、世界にも大きな衝撃を与えた大震災から、どのように日本の国と社会を建て直していくのか、原発を今後どうするのか、一人ひとりが真剣に考えるべき課題です。
このように皆さんの中高6ヶ年は、学校にとっても、日本の社会にとっても、大なり小なり一つの岐路に立って、今後、進むべき方向の選択を迫られる日々でした。きっと皆さん一人ひとりの身の上にも、色々なことがあって、よく晴れた気持ちのよい日もあれば、嵐の日もあり、壁にぶつかって、自分の将来や進路について悩む日々もあったのではと思います。でも健康をはじめ、色々な条件にも恵まれて今日という卒業の日を迎えることが出来ました。その陰に皆様の努力があったことは勿論ですが、ご両親をはじめ、ご家族の深い愛情と支え、先生方の親身なご指導、そして喜びも悲しみも分かち合った友人からの励ましや支えも大きかったことを思い、感謝をあらたにしましょう。
これから皆さんは、それぞれが選んだ道に進んでいきますが、この学校で今日まで学んできたことは、知識としても経験としても限られたもので、決して十分とは言えないかもしれません。それでも多感な中高生の時期に晃華で6年間、折に触れて耳にしたキリストの教えや聖書の言葉、先輩や後輩、仲間たちと時にぶつかりながらも力を合わせて作り上げたもの、様々な出会いや体験を通して感動したこと、考えたこと、喜び、悲しみ、悩み、それら一つ一つが皆さんの血肉となり、これからの長い人生を生き抜いていくための大きな支えとなり力となってくれることを祈ります。
卒業生に送る言葉として、今回、卒業アルバムに載せたのは「Bloom where God has planted you!」と言うある英詩の一節です。シスター渡辺和子が最近お書きになってベストセラーになっている本がありますが、『置かれた場所で咲きなさい』の書名は、この英詩の一節から来ております。
シスター渡辺は、2.26事件で凶弾に倒れた渡辺錠太郎・陸軍教育総監の次女として生まれ、9歳の時、自分の目の前で父親が反乱軍の青年将校たちに殺されるという衝撃的な事件に遭遇されています。30歳の頃、ノートルダム修道女会に入会されますが」、会の意向で修練のためアメリカに派遣され、修練期が終わった後、再び会の意向によりボストンの大学で学位をとられ、35歳で帰国されます。そして早速、岡山のノートルダム清心女子大学に派遣され、その翌年に二代目学長の急逝を受けて、36歳という異例の若さで三代目の学長に任命され、以来、女子の高等教育一筋に生きてこられたシスターです。
東京で育ったシスター渡辺にとって、岡山は初めての土地、しかも初代も二代目もアメリカ人の70代後半のシスターが学長を務めていた大学の学長という責任の重い役職に、卒業生でもなく、経験も知識もない30代半ばの若いシスターがいきなり任命されたのですから、そのご苦労たるや大変なものであったろうと推測されます。未経験の事柄の連続に四苦八苦し、すっかり自信を喪失して、修道院を出ようかとまで思いつめたシスターでしたが、一人のベルギー人の神父が短い一篇の英語の詩を渡してくれました。
その詩の冒頭の一行、それが「置かれた場所で咲きなさい」という言葉だったのです。この言葉に続けて、その詩には、こう書かれていました。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」
この詩によってシスターは、「置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で一喜一憂しているのでは、自分は環境の奴隷でしかない。どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり、自分の花を咲かせようと決心することが出来ました。それは私が変わることによってのみ可能でした」「私は、かくて、こんなに苦労している自分を周囲はわかってくれない、ねぎらってくれない、挨拶してくれないと不満を募らせる“くれない族”の自分と決別しました」と言っておられます。
現代人は自分が人生の中心という価値観で生きていますので、自分の思い通り、計算通りにいかない現実にぶつかると、たちまち自信は吹き飛び、不安と焦りにかられます。そんな時、「私」がではなく、「神」が主語となる価値観で生きているなら、たとえ自分が望まない環境に置かれても、願ってはいない立場、役割、仕事に就くことになっても、或いは他人から理不尽な仕打ちを受けても、それらのことを通して神が私をより成長させ、成熟させて、救いと完成に導き、多くの人のためにも善を引出さそうとしておられると信じて、私はそこから逃げ出すことはしないでしょう。なぜなら神が共にいて、必ず必要な助けと力を与えて、支えてくださるという信頼と安心感があるからです。そのような人を聖書の詩篇は、次のようにたたえています。
神に従う人はナツメヤシのように栄え、レバノンの杉のように聳える神の家の庭に植えられた人は、私たちの神の庭で栄える。年を経てもなお実を結び いつも いきいきと 生い茂る(詩篇92)
皆さんは6年間、授業の始まる前に毎回、数分間の黙想をし、朝礼と終礼で毎日、祈るのを習慣としてきましたが、人生の方向を間違えずに歩んでいくために、祈りと黙想はとてもよい手段になります。特に困難や苦境に陥った時というのは、往々にして生きる「羅針盤」を見失っていますので、そういう時こそ、一人になって静かに祈る、或いは黙想する時間を持つことをお勧めします。きっと心は穏やかになり、現在の苦境から立ち上がって前進する勇気が湧いてくると思います。
卒業生の皆様、長い人生、何があっても、あなたを愛し、あなたの真の幸せ、あなたにとっての真の善を望んでおられる神を信頼し、神に自分を委ねて、神が置いてくださった場で、与えられた条件を100%受け入れて、あなたの花を美しく咲かせ、周りの人をも幸せにする人生を送ってください。学園の保護者、聖母マリアが、皆さんに進むべき道を示し、目指す港に安全に導いてくださいますように祈っております!