2012年度

2月15日の宗教朝礼

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投稿日2013/2/15

 皆さん、おはようございます。

 晃華学園に学ぶ皆さんは聖書の朗読を聞いたり、読んだりする機会も多いので、それぞれが自分のお気に入りの箇所を持っていると思います。私にもいくつかあるのですが、その中の一つにファリサイ派の人がイエスに最も重要な掟は何か?と聞くシーンがあります。イエスは最も大切な掟はまず心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。そして第二の重要な掟は「隣人を自分のように愛しなさい。」ときっぱりとお答えになっています。

 「隣人を自分のように愛しなさい。」この言葉は皆さんもよく耳にしますね、でもどうしたら自分のように人を愛することができるのでしょうか。

 私は、光塩女子学院高等学校を卒業しました。当時、光塩では高校3年生の教室の隣に教室の四分の一くらいの小さな部屋があって、カーペットが敷かれ、私の背よりも大きなキリスト像が壁に架けられ、生徒が心を落ち着かせて自分と向き合える部屋が用意されていました。ほとんどそのスペースを利用する生徒はいない様子で、私がそこへ行くといつもだれもいなくて、ひとり、大きなキリスト像とかなりの至近距離で対座することができました。当時、何かにつけて自分に自信が持てず、劣等感に押しつぶされそうになっていた私には、ゆっくり自分を見つめることができるその場所はとてもありがたい、隠れ家でもありました。そして、そのキリスト像の下に、「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」という文字が書いてあるのをいつもぼんやりと眺めていました。その言葉はその時の校長先生がいつも繰り返し生徒におしゃっていた言葉でもありました。

 それでも、高校生の私は、「友のために命を捨てる・・・」といわれても、たった一つの私の命をあげてしまうなんて絶対無理、無理と、とうていできそうもない無理難題を要求されているとしか思われず、ずいぶんなことを要求する神様だなあとこれまたぼんやりと考えていました。

 やがて、月日は飛ぶように流れ、高校生だったころなどあまりにも昔の話で、いろいろなことがよく思い出せないほど年を経ているにもかかわらず、この言葉は私の胸のなかで、長い間、気にかかる言葉としてくすぶってきました。そしてある時、突然アツ!そうなんだ!と、ふにおちることができたのです。

 私には、映画や物語のヒーローのように命を勇敢に差し出すことはできないけれど、だれかのために私の命の一部である「時間」を使うことはできるかもしれないと気がついたのです。

 私たちは、毎日多くのストレスにさらされながら忙しく生きています。しなくてはならないこと、守るべき約束、時間までに終わらせなくてはならない仕事、頭の中でぐるぐる回っている悩み事、解決しなければならないたくさんの問題・・・そんなとき、あなたの周りに困っている人、つらそうな人、あなたを必要としている人、がいたら、迷うことなくその人のために自分の時間を使う!これこそ私にもできる最も大切な掟と気がついたのです。

 もちろん、簡単なことではありません。目の前の自分のしたいことを優先させたい気持ちに勝つことは本当に難しいことです。どうしてもできないこともたくさんあります。でも、そうありたいと願い、実行することがひょっとしたらイエスさまのお望みにかなうことだとしたら、がんばりがいがあるというものです。時間をさいたところで、その人の悩みを解決することなどできないことは当然です。でもその人と共に存在すること、気持ちに寄り添うことには意味があるはずです。

 みなさんもちょっとだけ優しい気持ちになって、何か特別のことができるわけではないけれど、だれかのために共にいる、DoingはできなくてもBeingしてみてください。その行いはきっとあなた自身にあたたかい電流となってなぜかあなた自身に戻ってきます。そうすると、不思議なことに、自分のことばかり考えていたときよりもかえって自由に自分のこともできるようになってきます。そしてその連鎖がまた新しい世界を開いていく・・・そんな風に私は信じています。(B・M)

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